市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第12講

「はっきり言っておくが、あなたは今日
わたしと一緒にパラダイスにいる」。

(ルカ福音書 二三章四三節)


第四部 希望の諸相

     第二講 希望としての神の国

            ― 福音書における希望 ―

福音書における希望の構造

キリスト再臨の希望

 前講において「ケリュグマ伝承」の概略をお話しして、ケリュグマの中のキリスト復活の告知が信じる者の復活の約束となっていること、したがってケリュグマは復活の希望の告知であることを明らかにしました。ところで、原始キリスト教団の信仰を形成した要素として、このケリュグマ伝承と並んでもう一つの重要な伝承、「イエス伝承」があります。これは復活してキリストまたキュリオスとして立てられたイエスとはどのような方であるのかを語り伝える伝承です。イエスが地上におられた時の働きやお言葉を、それを見たり聞いたりした者たちが語り伝えた伝承です。キリストの十字架と復活のケリュグマを信受して告白し、聖霊の働きによって成立した教団に、イエスの働きや言葉が語り伝えられ、蓄積されて、イエス伝承が形成されていきます。やがて教団はこのイエス伝承を素材として、自分たちの信仰を告白する文書を生み出すようになります。それが福音書です。したがって、福音書はあくまでケリュグマを基本的な枠組みとして、その枠の中で伝承されたイエスの働きと言葉を素材として用いて「福音」を告げ知らせる文書です。今回はこの福音書において、ケリュグマが与える希望がどのような形で表現されているかを見ることにします。
 まず、共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカの三つの福音書を見ましょう。一読してすぐに気づく点は、教団にとっての将来の希望はキリストの再臨という形で表現されていることです。しかも、それが黙示録的な形で表現されています。キリストの来臨(パルーシア)を語るマルコ福音書十三章は「マルコの小黙示録」と呼ばれています。そして、この黙示録的な来臨の告知はマタイにもルカにもほぼ同じ形で用いられています。さらにそれとは別に、ルカには「ルカの小黙示録」と呼んでもいいような終末的な告知があります(ルカ一七・二二〜三七)。
 これらの「小黙示録」は「人の子」が栄光の中に現れることを予言しています。福音書はケリュグマが語る「死者の復活」を直接に告知することはありません。それは、地上のイエスは死者の復活を前提として神の国のことを語っておられますが(マルコ一二・一八〜二七、一四・一四)、それを直接に宣教の内容とされていなかったからです。イエスが将来のことを語られる時には、「神の国」が来るとか、「人の子」が現れることとして語られました。そのさい、イエスも聴衆もユダヤ人ですから、当時のユダヤ教の共通の思想である黙示思想の用語や表象が用いられるのは自然なことです。それで、教団は自分たちの希望を語るさいにも、福音書においてはあくまでイエスが用いられた表現の枠内に忠実に留まったのです。それでも、「人の子は選ばれた者たちを四方から呼び集める」(マルコ一三・二七)とか、「一人は連れて行かれる」(ルカ一七・三四)というような表現の背後に、死者の中から復活させられるという希望(テサロニケT四・一四)が響いているのが感じられます。

隠されている神の国

 このように、共観福音書では将来の希望は「人の子の顕現」という形で語られていますが、イエスの宣教にはもっと重要な一面があります。それは「神の国」がすでに来ているという告知です。預言者が予言し、イスラエルの全歴史が待望した「神の支配」、「神の国」の事態が到来しているというのです。
 「時は満ちた」のです。イエスが神の霊によって悪霊を追い出し病気を癒される時、それは死と滅びの支配が打ち破られて、神のいのちの支配が到来していることを指し示しているのです。イエスが無条件で罪の赦しを宣言し、律法の基準からすれば「罪人」でしかない者たちと食卓を共にされる時、律法の支配、すなわち人間の功績の原理は崩壊し、神の恩恵の満ち溢れる支配が実現しているのです。
 ところが、このような「神の支配」はすべての人の目に見えるあらわな形で来ているのではありません。それはイエスの中に隠された形で到来しているのです。自分を「義人」とする者たちはそれを見ることができず、イエスを信じる「貧しい者」だけがそれを見、それにあずかることができるのです。しかし、「隠されているもので現れないものはない」のです。いま「貧しい人たち」があずかっている隠された神の支配は、必ず現れるようになります。神の支配は「今泣いている」という現実の中に隠されています。しかし、それは必ず現れて、「笑うようになる」のです。イエスがしばしば語られた種の譬(からし種の譬や種を蒔く人の譬など)と、「隠されているもので現れないものはない」というお言葉は、このように現在隠されている神の国が将来必ずあらわな形で顕現することを語られたものであると、わたしは理解しています。
 実は、これが希望の原理なのです。序でも申し上げましたように、希望というのは現在と切り離された将来への予測とか願望ではなく、将来が現在に突入して、現在を支える力となっている事態です。イエスは希望という用語は用いておられませんし、希望について説明されることもありません。しかし、このように将来必ず顕現する祝福を現在隠された形で与えることによって、現に希望を与えておられるのです。「貧しい人々は幸いである」で始まる祝福の言葉(ルカ六・二〇〜二三)は、イエスによる希望の大宣言であると言えます。イエスが宣べ伝えられた「神の国」とは希望そのものであると言えます。
 先に、共観福音書においては将来が「人の子の顕現」という黙示録的な表現で語られていることを見ましたが、これはいま見たような「現在隠された形で到来しているものが将来あらわな形で顕現する」という希望の原理の中で、将来の顕現の面を取り出して語っているわけです。しかも、それが初代教団の中で伝承されてゆく過程で黙示録的な色彩を濃くしてきます。その傾向の行き着くところがヨハネ黙示録です。ここでは激しい迫害の中で、教団の希望が反抗する勢力を撃ち滅ぼして栄光の中に顕現されるキリストに集中し、しかもそれが徹底的にユダヤ教黙示録の用語と表象で語られているのです。

ヨハネ福音書における現在と将来

 しかし、黙示録的な希望のあり方は、しばしば現在と切り離された未来への強烈な願望にすぎないものになる危険があります。このような黙示録的傾向に対して、希望の原理の中で「現在すでに到来している」という面を徹底させたのがヨハネ福音書です。ヨハネ黙示録とヨハネ福音書はともに新約聖書の中では後期に属する文書ですが、この二つは希望を構成する将来と現在という両面の一方を徹底させたもので、まったく対照的なものです。
 ヨハネ福音書では、中心になっているのは「神の国」ではなく「永遠の生命」です。そして、ヨハネ福音書のイエスは繰り返し、信じる者は現在すでに永遠の生命に入っていると語られます。ヨハネ福音書にはもはや共観福音書の黙示録的な再臨の予言はありません。イエスは最後の夜の訣別の訓話の中で、弟子たちに再び彼らのところに帰ってくることを約束しておられますが、それは聖霊によって弟子たちの中に来られることを指しており、すでに現実となっている事態です。ヨハネ福音書では、素材のイエス伝承は霊として現臨されるキリストと融合しており、地上のイエスの言葉と霊なるキリストの言葉とは重なりあって区別がつかなくなっております。この福音書では、地上のイエスと弟子たちや群衆や批判者たちとの対話に託して、現在の霊の世界の実相が展開されているのです。ですから、この福音書が希望について語る時、将来の顕現よりも現在の霊的事実が強調されることになるのです。そのことは復活を主題とするラザロの復活の記事(一一章)に典型的に表れております。
 ラザロが死んだことを嘆いているマルタに、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われます。ここでイエスを通して死者の復活が明確に宣言されています。それに対してマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言っています。当時のユダヤ教では、終わりの日に神が死んだイスラエルの民を復活させてくださることが正統の信仰箇条になっていました。信心深いユダヤ教徒としてマルタはこの信仰を告白しているのです。それに対してイエスは、そのような将来の出来事だけに期待するような信仰を、現在の霊的事実を生きることによって克服するように求めて、こう言っておられます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。(二五〜二六節)

 「わたしを信じる者」、すなわち霊なるキリストに結ばれて生きている者は、現に「死んでも生きる」生命に生きているのです。それが「復活」だというのです。これは、終わりの日の死者の復活を教義として信じているだけのユダヤ教に対して、すでに復活の生命の現実に生きている福音の優位を示すと同時に、教団の内部でも黙示録的な未来待望に傾きがちな者たちに、現在の霊的生命に生きることによって、希望が教条化、観念化することを克服するように呼びかける性格をもっているわけです。
 このようにヨハネ福音書は現在の霊的事実を強調していますが、将来の出来事を否定したり無視したりしているわけではありません。ヨハネ福音書のイエスは「信じる者はすでに永遠の生命を持っている」と言うと同時に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われるのです(六章三九、四〇、四四、五四節)。逆に言えば、あらゆる黙示録的な未来待望をそぎ落として徹底的に現在化したこの福音書においても、終わりの日の死者の復活の信仰だけは福音の本質に属することとして、すなわちそれがなくなれば福音が福音でなくなる事柄として、保持しなければならなかったのだと言えます。

苦難における希望

 福音書において、希望を構成する将来と現在がどのように関わっているのかを見てきたわけですが、福音書における希望の構造についてもう一つ大切なことがあります。それは最初に書かれたとされるマルコ福音書においてすでに強調されている点ですが、栄光にあずかる希望は苦難の道において確立されるということです。復活は十字架を経て到達する栄光です。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言って、ご自身の道が苦難を通して復活の栄光に至る道であることを語っておられます。そして、弟子たちに「わたしの後に従いたい者」、すなわちイエスの後に従って栄光に達したいと願う者は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と求められるのです(マルコ八・三一〜三八)。キリストに結ばれて生きる者はこの希望の構造を知っていますから、苦難をも喜ぶことができるのです(ルカ六・二二〜二三、ローマ五・一〜五)。

地獄を克服する希望

陰府と地獄

 ところで、イエスは希望としての神の国を語られると同時に、地獄のことも真剣に語っておられます。イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます(マタイ一〇・二八)。その真剣さは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」とか、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」というような言葉によく表れています(マルコ九・四三〜四七)。ここで、「地獄に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」ことが、「命にあずかる」とか「神の国に入る」ことの反対として、身体の一部を失うことよりも真剣な問題として語られています。宗教において、信仰を勧める背景として地獄の恐怖が語られることが多いようですが、イエスの場合はどう理解すればよいのでしょうか。イエスはまた「陰府」についても語っておられます。金持ちとラザロの譬でこう言っておられます。

「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。(ルカ一六・二二〜二三)

 この譬は死後の世界のことを啓示するのが目的ではなく、「貧しい者」を救う神の恩恵を語るためのものですが、それを語るのに当時のイスラエルの人々の死後の世界についての表象をそのまま用いているわけです。それによれば、義人は死後「アブラハムのふところ」に迎え入れられて祝宴にあずかるが、罪人は「陰府」で苦しむことになるというのです。この陰府(ハデス)は、死後に火の呵責を受ける点など地獄(ゲヘナ)と共通する面があるのですが、本来は違う概念なのです。ここで、この二つの用語について簡単に触れておきましょう。
 人類は太古の昔から、死者は無に帰するのではなく、この世界とは別の世界に行くのだと考えてきました。その別の世界は天空にあるとも地下にあるとも考えられていましたが、地下の場合の方が多いようです。人が死後に行く世界は、民族によりさまざまな言葉で呼ばれています。イスラエルでは「シェオール」、ギリシャでは「ハデス」、ゲルマンでは「ヘル」、そして日本では「陰府」、「黄泉国」、「根の国」などと呼ばれています。これらはみな地下の国です。もともとそこには善悪の区別はありません。そこは喜びも苦しみもない影のような世界です。善人も悪人も死ねばみなそこに行くのです。
 ところが、人間の宗教思想の進展に伴って、因果応報や審判の観念が加わり、地上で悪を行った者は死後の世界で苦しみを受けるという「地獄思想」が形成されるようになります。インドではナラカ(地下の牢獄、日本語では奈落)に八熱地獄と八寒地獄があるとされ、中国では民間信仰の死者の国である「泰山」が仏教の影響で組織化された呵責の場所としての地獄に変貌します。日本では、古来の黄泉国に仏教を通して入ってきたインドと中国の宗教思想が影響して地獄の観念が発達します。その頂点は有名な源信の「往生要集」でしょう。そこには想像しうるかぎりの責め苦が描かれています。わたしも子供のころ近所の仏具店に陳列してある、亡者が赤鬼青鬼に苦しめられる地獄絵図を見て恐ろしく思ったことがあります。ギリシャでも、最後の段階ではハデスは罪を犯した者に対して罰と浄化を課す地獄になっております。

パラダイス

 旧約聖書では、死者が赴く地下の世界は「シェオール」と呼ばれています。そこは神から遠く離れた、影のような存在のための場所と考えられていました。そこには審判とか罪の罰としての責め苦というようなものはありません。ところが、新約直前の時代になると黙示録的終末信仰が盛んになり、そこでは最後の審判がゲヒンノム(ヒンノムの谷)の火で象徴されて語られるようになります。
 ヒンノムの谷というのはエルサレム西南にある谷で、昔そこでモロクの神に子供を火で焼いて供えるという祭儀が行われたので不浄の土地とされ(エレミヤ七・三一〜三二)、この時代には不浄物を焼く火が絶えることがなく悪臭のただよう谷になっていたのです。この「ゲヒンノム」がそのままギリシャ語で用いられて「ゲヘナ」となるのです。ですから、「ゲヘナ」とは最終的な審判によって定められる永遠の地獄を意味することになります。
 一方、すべての死者が赴く地下の世界「シェオール」には、ギリシャ語訳旧約聖書ではつねに「ハデス」という用語が用いられてきました。このように「ハデス」(陰府)と「ゲヘナ」(地獄)は基本的に違う事柄を指しているのです。「ハデス」はすべての人が死後に入って行く世界であり、それは最後の審判または復活の時まで存続する中間期的な世界です。「キリストは陰府に降り」と言われる時の「陰府」は、このような中間期の死者の世界です。それに対して「ゲヘナ」は最終的な審判によって永遠に神の呪いに定められた者が落ちる終末的な苦悩の場を指しています。
 ところが、この「ハデス」の方も二つに区分されるようになります。一つは神に祝福された義人の魂が入る所であり、イスラエルでは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、貧しいラザロが入っていった所です。もう一つは、罪深い悪人が入る所で、そこでは火に焼かれるような苦しみがあるとされます。ラザロを憐れまなかった金持ちが落ちた所です。この苦悩を伴う死後の世界に「ハデス」(陰府)という名がそのまま用いられることになります。これが狭い意味での「ハデス」です。イエスが「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカ一〇・一五)と言われた時の「陰府」も、この狭い意味での陰府を指しているのです。
 この狭い意味での「ハデス」、すなわち苦しみの死後世界である「陰府」に対して、祝福された死後の世界は「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)と呼ばれます。イエスは十字架の上で、横で十字架にかけられている者に、この語を用いて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカ二三・四三)と言っておられます。
 「パラデイソス」(英語ではパラダイス)というのは、「(壁で囲まれた)園」を意味するペルシャ語から借用されたギリシャ語で、七十人訳ギリシャ語聖書や初期ユダヤ教においては、まず創世記二章の「エデンの園」を指す用語でした。それはたしかに楽園でした。そして、預言者やユダヤ教黙示文学は未来の祝福を、アダムの罪によって失われた楽園が終わりの日に回復することだと表現しました(エゼキエル三六・三五、イザヤ五一・三など)。初めの時のパラダイスが終わりの時に再来するという希望です。それだけでなく、このパラダイスはすでに現在隠された形で存在しており、アブラハムをはじめとする父祖たちや、エノクやエリヤような義人たちがそこにいると、ユダヤ教では信じられておりました。初期にはすべての死者は「シェオール」に行くと考えられておりましたが、後期には不信心な魂は「シェオール」へ、義人の魂は「パラダイス」へ行くと信じられるようになっていたわけです。ですから、パラダイスには初めの時のパラダイス、終わりの時のパラダイス、現在の隠されたパラダイスという三つの相があることになります。

神の国とパラダイス

 新約聖書でもこの三つの相でパラダイスが取り上げられています。初めの時のパラダイス、すなわちエデンの園は直接には言及されていませんが、当然のこととして前提されています。終わりの時のパラダイスについては、ヨハネ黙示録(二・七)で、「耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園(パラダイス)にある命の木の実を食べさせよう」と言われています。この他、黙示録では新しいエルサレムは再来のパラダイスとして描かれています。現在の隠された相のパラダイスについては、パウロが触れているところがあります。パウロは「彼は楽園(パラダイス)にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(コリントU一二・四)と、他の人のような言い方をしていますが、これは「第三の天にまで引き上げられた」パウロ自身の体験を語っているわけです。イエスが十字架の上で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた時も、この相のパラダイスを指しておられます。
 このように、地獄(ゲヘナ)と陰府(ハデス)が違うものであるように、「神の国」と「パラダイス」とは違うのです。「神の国」と「地獄」は終末的な現実であって、神と人間の関わりの最終的な形態です。神の国は祝福された形態であり、地獄は絶望の姿です。それに対して、「パラダイス」と「陰府」は死者の魂が赴く世界であって、最終的な決定がなされるまでの中間期の形態です。その中で祝福された場がパラダイスであり、苦悩の場が陰府となるわけです。
 ですから、聖書においては、「神の国」と「パラダイス」とは違った現実を指しているのですが、この二つの概念はしばしば混同されているようです。とくに日本語では、「天国」という曖昧な用語が混乱をひどくしているようです。普通日本語で「天国」というと、すべての死者が赴く死後の世界のことが考えられているようです。この世で結ばれなかった恋人が死んで天国で結ばれるというように言われます。昔は地下にあった黄泉の国が、近代になってキリスト教の影響からか天に移ったようです。しかも、「天国」は苦しみのないよい所であるとイメージされていますから、これは聖書のいう「パラダイス」に近いわけです。ただ日本人が言う「天国」は義人も悪人もみな入る所ですから、この点で「パラダイス」とは違います。
 ところで、イエスが宣べ伝えられた「神の国」を、マタイ福音書が当時のユダヤ人の習慣から「神」という用語を避けて「天」を用いて「天の国」と表現し、それを日本語訳聖書が「天国」と訳したことから、混乱が生じたようです。この訳によって、イエスは、日本人が勝手に想像している死後の祝福された世界である「天国」を宣べ伝えた人物であるという誤解や、「神の国」と「パラダイス」の区別がつかなくなるという混乱が引き起こされたようです。新共同訳が「天国」という訳語を避けて「天の国」としたのは、この混乱を避けるためだと思います。

今日パラダイスに

恩恵の現実と地獄の現実

 さて、先に触れましたように、イエスは地獄を真剣に問題にしておられますが、これはどのように理解すればよいのでしょうか。宗教ではよく地獄の恐ろしさを強調して、だから信仰に入るようにと勧めます。イエスの場合は逆です。神の救いが恩恵によって無条件で与えられているから、地獄のことが真剣な問題となるのです。イエスの宣教活動を見ますと、まず地獄の恐ろしさを詳しく描写して、だから悔い改めて信仰に入るようにというようなことは言っておられません。イエスはいつも無条件で救いを与えておられます。イエスにおいては神の恩恵が人間の善悪を圧倒して支配しているからです。それがイエスの中に到来している「神の支配」、「神の国」です。
 イエスにおいては、この恩恵の支配である「神の国」がきわめてリアルな現実ですから、その恩恵の支配から締め出されることである「地獄」もきわめてリアルな現実になるのです。地獄の恐ろしさは神の国の素晴らしさの裏側です。いまや人は誰でも信仰によって、すなわち恩恵を恩恵として無条件で受け取ることによって神の命の世界に入って行くことができるのですから、その信仰を妨げる(つまずかせる)ものは、たとえ身体の一部のように大切なものであっても、切り捨てなければならないほど真剣な問題になるのです。
 宗教はその長い歴史の中で地獄の思想を発達させてきました。イエスも地獄を真剣に問題にしておられます。しかし、イエスにおいては圧倒的な神の恩恵の現実が地獄を克服しているのです。恩恵の下にいる者はもはや地獄とは無関係なのです。片手を切り捨ててもという真剣さは、実はこの神の恩恵を受け取ることの真剣さを言っているのです。そして、この恩恵の支配がいかにリアルな現実であるかは、イエスが十字架の上で、横で十字架にかけられている犯罪人に言われたあの言葉がもっともよく示しています。
 イエスは自らも死に直面しながら、犯罪者として処刑されて死んでゆく者に言われるのです。彼が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った時、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と断言されます。これは「アーメン、わたしは言う」という句で始まる重い言葉です。彼は「あなたの御国においでになるときには」と漠然と将来の救いを期待します。それに対してイエスは、「今日」パラダイスにいると断言されます。イエスは死んでゆく「今日」パラダイスに入られるのです。そのイエスと一緒に彼も「今日」パラダイスにいるというのです。
 これは驚くべき言葉です。彼は犯罪者として十字架で処刑されている人間であって、もはや善も悪も何一つすることはできません。苦しい息の下でイエスにすがる一言を発し、それによってイエスに結びついただけです。地上の生の最後の瞬間にイエスと結びついたことで、「今日」イエスと一緒にパラダイスにいることになったのです。どれだけ長くイエスと一緒にいるかは問題ではないのです。いま現在イエスと一緒にいるならば、いま死んでもイエスと一緒にいることになるのです。それがパラダイスです。イエスと一緒にいるところがパラダイスなのです。このイエスの言葉では「パラダイスにいる」ではなく「わたしと一緒にいる」が大切な点です。

主と共に生きる

 パウロも、キリストの再臨が起こるまでに死ぬ人が出たことに動揺しているテサロニケの信徒たちに、こう書き送っています。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。(テサロニケT五・一〇)

 ここで「目覚めている」というのは地上に生きている状態のことであり、「眠っている」というのは死後の世界にいることです。主キリストがわたしたちのために死なれた目的は、信じるわたしたちが地上に生きている時も、死後の世界においても「主と共に生きる」ようになるためだというのです。地上に生きているか死後の世界にいるかは問題でない。大切なことは「主と共に生きる」ことです。主と共にいるならば、主の来臨のとき地上にいるか死後の世界にいるかは問題ではなく、復活の栄光にあずかることになる、とパウロは言っているのです。
 新約聖書は死後の世界のことを詳しく描写してはいません。わたしたちは死後の世界のことをよく知りません。しかし、一つのことをはっきり知っています。それは、いま地上で一つに結ばれて生きているキリストが、死後の世界でもわたしたちと一緒にいてくださり、そのキリストと共に生きることができるということです。これがわたしたちの希望の実質です。
 十字架上のイエスの言葉は、わたしたちの希望の極限の表現です。いま主イエス・キリストと一緒にいるならば、いま死んでもこの主イエスと一緒にパラダイスにおり、最終的にはイエスと一緒に死者の世界から導き出されて復活の栄光にあずかることになるのです。いま主イエス・キリストと共に生きているならば、いつ死に直面してもこの言葉を聞くことができるのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」。

 今回の集会でこの一言葉をしっかりと聞き取って帰られるなら、多くの犠牲を払って参加された値うちがあると言えます。