市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第11講

第四部 希望の諸相

     第一講 希望としての復活

             ― 福音(ケリュグマ)における希望 ―

はじめに


 「希望が人間実存に対してもっている意味は、酸素が肺に対してもっている意味に比べられる。酸素を取り去ってしまえば、窒息死という事態が起こる。それと同じように希望を取り去ってしまえば、人間には絶望という呼吸困難や、人生は虚しく無意味だという気持ちから生じてくる心的・精神的緊張という心の麻痺状態に陥る。酸素の供給が有機体としての人間の運命を決定するように、希望の供給が人間性の運命を決定する」。(E・ブルンナー『永遠』より)

 人間は時の中の存在です。そのことは人間が不安の中の存在であることを意味します。不安とは、将来が不確実であって、自分がどうなるのか分からないことから来る存在の根底の動揺感あるいは喪失感です。人間が時間の中の存在であるかぎり、不安を免れません。その不安を克服するものが希望です。希望とは、確かなよい将来が現在の生の根底を支えることです。希望とは、未来が現在に突入してきている事態です。
 時の中にいる人間にとって、最も確かな将来は死です。死の彼方にあるものが何であるかが分からないので、死という将来は現在の生を根底から否定するものとなり、根源的な不安となります。この不安を克服する希望はあるのでしょうか。人間にとって基本的なこの問いに答えることが、今回の三回の講話の目的です。
 最初に、三回の講話の題名と扱う分野を示す副題をかかげておきます。

  第一講 「希望としての復活」
        ― 福音(ケリュグマ)における希望
  第二講 「希望としての神の国」
        ― 福音書における希望
  第三講 「希望としての創造」
        ― 聖書救済史における希望

初めにケリュグマがあった

ケリュグマの伝承

 エルサレム神殿がローマの軍勢に滅ぼされ、神の民としてのイスラエルの崩壊が決定的になるすこし前、少数のユダヤ人がエルサレムで同国人に叫んでいました。「あなたがたが十字架につけて殺したナザレ人イエスを、神は復活させた!」(使徒三・一五、四・一〇、五・三〇)。
 彼らは殺されたナザレ人イエスの弟子たちでした。彼らは復活したイエスに出会ったのです。それは彼らの全存在を圧倒する体験であり、否定しようのない現実でした。彼らは、イエスを憎んで殺した同国人たちに、命がけでこの事実を証言したのです。「イエスは復活した」という彼らのケリュグマ(報知活動と報知内容)が一切の始まりです。新約聖書が証言するすべての事態は、このケリュグマから始まります。
 「ケリュグマ」というのは「ケリュセイン」(宣べ伝える、告げ知せる)という動詞の名詞形で、宣べ伝える行為自体を指す場合と、宣べ伝えられた内容を指す場合があります。ここではその両方を含む意味で用いています。「ケリュグマ」は普通「宣教」と訳されますが、「ケリュグマ」という語を用いる時は「教え」とは区別される面を強調しようとしているのですから、この訳語は問題です。「教え」(ディダケー)は、すでに信じた内部の者たちに信仰や倫理について説明したり、奨励したりするための言葉です。それは理解を促し、従うことを求める言葉です。新約聖書の大部分はこの「教え」に属します。
 それに対して、「ケリュグマ」というのは、外の人々に向かって、人間の救いのためにキリストにおいて神が成し遂げてくださった業を端的に告げ知らせる行為であり言葉です。それは信じることを求める言葉です。このような告知の内容は、新約聖書では「福音」(エウアンゲリオン)という語でも表されていますが、現在では「福音」という用語はかなり広い意味で用いられていますので、ここではあえて「ケリュグマ」という原語をそのまま用いることにします。「ケリュグマ」とは最も狭い意味での福音、すなわち福音の核心部分を指すと考えてくださって結構です。
 「イエスは復活した」という弟子たちのケリュグマは、すぐにその出来事の意義も含めて語られるようになり、様々な形に展開してゆきます。ここではその展開を詳しく跡づけることはできませんが、そのアウトラインを見ておきましょう。
 初期のケリュグマで最も古く、最も基本的なものは、パウロがコリントの信徒への第一の手紙一五章の冒頭(三節b〜五節)で引用しているものです。それはこういう内容です。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」。

 パウロはこれを「わたしが告げ知らせた福音」と呼んでいます(一〜二節)。これが「ケリュグマ」です。パウロはダマスコ途上で復活されたイエスと出会い、そのイエスから直接福音を宣べ伝える使命を与えられて使徒とされた人物です(ガラテヤ一・一)。しかしこのケリュグマは、パウロ個人の霊的体験や思索から生まれたものではなく(それによって裏打ちされていますが)、「わたしも受けたもの」を「伝えた」のだと言っています(三節)。ここに、ケリュグマが伝承として伝えられてゆくものであることが明確に語られています。
 パウロがこのケリュグマをどのようにして「受けた」のかは触れられていませんが、パウロが回心後三年目に初めてエルサレム教団を訪れ、ケファのもとに十五日間滞在した時であろうと考えられます(ガラテヤ一・一八)。そうすると、これはイエス復活後五、六年以内のことになり、きわめて古い伝承であることになります。
 当初エルサレムの信徒たちはユダヤ教の律法の枠内に止まり、復活されたイエスをイスラエルの救済者メシアと仰ぐユダヤ教の一派のような形をとっていたようです。ところが、彼らの中でギリシャ語を話す者たちがユダヤ人以外の人々に伝えるようになって、ケリュグマは広く人間の救済を告げ知らせる方向に展開して、パウロが受けた時にはここに引用されているような形になっていたわけです。

キリストの十字架と復活のケリュグマ

 このケリュグマはキリストの出来事を「死んだ」、「葬られた」、「復活した」、「現われた」という四つの動詞で表現していますが、葬られたのは死んだことの確認、現われたのは復活したことの確認と見られますから、実質的には死んだことと復活したことの二つの出来事を語っていることになります。そしてキリストが死んだのは「わたしたちの罪のため」であるという意義が語られ、復活にはその現われに接した証人が挙げられて、その事実性が保証されています。そして、このキリストの死と復活の出来事が聖書の成就であることが強調されています。このように、キリストの死が贖罪の死であることと、死と復活が聖書の成就であることを語るケリュグマは、「ユダヤ型のケリュグマ」と呼ばれています。
 パウロはローマ書の冒頭(一・二〜四)で自分が使徒として宣べ伝えている福音を要約していますが、その中の「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」という部分は、もう一つの古いユダヤ型のケリュグマを引用していると考えられます。「ダビデの子孫から生まれ」というのは典型的なユダヤ人向けの句です(テモテU二・八参照)。このケリュグマではイエスの死に触れられていないのが注目されます。そして最後に「この方がわたしたちの主イエス・キリストです」という説明的な文が加えられています。
 この「主イエス・キリスト」という表現はヘレニズム型のケリュグマ、すなわちユダヤ人以外のヘレニズム世界の諸国民に伝えられたケリュグマを凝縮した表現です。パウロはヘレニズム世界の首都ローマの信徒にあてた手紙の冒頭で福音を要約するにあたって、ユダヤ型のケリュグマを引用しながら、最後にはヘレニズム型のケリュグマの用語で締め括ったのでしょう。
 ヘレニズム世界では、ユダヤ人特有の用語である「メシア」とかそのギリシャ語訳である「キリスト」は身分を表す称号としては理解されなくなっており、「イエス・キリスト」という表現は一個人を指す名前になっていました。それで、この方が神の支配を委ねられた特別の地位に上げられた方であることを示すのに、別の称号が必要になっていました。このために用いられたのが「主(キュリオス)」という称号です。「イエスこそキュリオスである」(コリントT一二・三)が最も単純で基本的な信仰告白です。信仰告白はケリュグマの告白ですから、この告白の背後に「イエスはキュリオスである」というケリュグマがあることが推察されます。
 事実、パウロは「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」として、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」という典型的なヘレニズム型のケリュグマを引用しています(ローマ一〇・九)。このケリュグマでは、復活がキュリオスとされることと同一視されている点、またイエスの死に触れていない点が注目されます。
 さらに、ピリピ書(二・六〜一一)に引用されているキリスト讃歌もヘレニズム型のケリュグマを告白するものとされています。ここでは、イエスの出現はダビデの子孫としての出生ではなく、先在の神の子が自分を無とされた出来事であり、その死は贖罪の死ではなく、神への従順の行為であり、その結果「高く上げ」られて(復活という語は用いられていないがこの句に含まれている)、万物の上に立つキュリオスとされた、と語られています。

「ケリュグマ」における復活

ケリュグマの核心としてのキリストの復活

 このように、初代教団のケリュグマを概観した結果、ケリュグマにも様々な異なった形があることが分かります。たとえば、キリストの死の事実や意義は、明確に語っているものもあれば触れていないものもあります。その中で復活の報知は初めから終りまで、どの段階のケリュグマにも一貫していることが注目されます。これはキリストの復活こそケリュグマの中のケリュグマ、ケリュグマの核心であることを示しています。
 では、キリストの復活はどのような意義を担う出来事として告げ知らされているのでしょうか。今までに見てきたケリュグマの中で二つの点が明確に語られています。第一は、キリストの復活は聖書の約束の成就であるということです。これは、キリストの復活がイスラエルの歴史の中で預言者によって語られてきた神の約束の成就、すなわち神が終わりの日に成し遂げられると約束してこられた救済の業そのもの、終末的出来事であると宣言しているのです(使徒行伝一三・三三参照)。
 第二は、キリストは復活によって高く上げられ、万物を支配する栄光の座についておられるということです。これは「神の右に座し」という表現で語られることもあります。そしてこの宣言は、現実の世界はまだキリストの支配に服していないのですから、支配者としてのキリストの栄光は近い将来に現れることになるという告知、すなわちキリスト再臨の告知を含むことになります。パウロのケリュグマではキリストの再臨がはっきり語られていたことは、彼の手紙から知ることができます(ピリピ三・二〇、テサロニケT一・一〇など)。

キリストの復活と死者の復活

 キリストの復活の意義についてケリュグマが語ることはこれだけでしょうか。もう一度、パウロがコリントの信徒への第一の手紙十五章で引用している最古のケリュグマに戻りましょう。それはこういう内容でした。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」。

 ここでキリストの死の意義、すなわちわたしたちとの関わりが明確に述べられています。キリストは「わたしたちの罪のために」死なれたのです。「わたしたちの罪のために」という句は、「わたしたちの罪が原因で」とか、「わたしたちの罪の代理として」とか、「わたしたちの罪を解決する目的で」とか、いろいろの理解の仕方がありえます。しかし、どの解釈をとっても、キリストの死がわたしたちとの関わりを持つ出来事であることは変わりません。
 ところが、キリストの復活については、その事実が語られているだけで、その事実がわたしたちとどのような関わりがあるのか、何も述べられていません。パウロが福音を宣べ伝えた時、このことについては何も語らなかったのでしょうか。決してそうではありません。パウロはそのケリュグマ(福音を宣べ伝える活動)においてキリストの復活とわたしたちとの関わりを明確に語っています。それは、パウロの最も初期の手紙とされているテサロニケの信徒への第一の手紙を見れば明らかです。そこでパウロはこう言っています。

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。(テサロニケT四・一四〜一七)

 ここで明らかにイエスの復活が「キリストに結ばれて死んだ人たちが復活する」ことの根拠ないし保証として語られています。すなわち、イエスの復活が、キリストを信じる「わたしたち」との関わりにおいて、「死者の復活」の保証とされているのです。このことは「主の言葉に基づいて」断言されているのです。 この箇所でもう一つ注目すべき点は、死んだ人たちが「眠りについた人たち」と呼ばれていることです。眠った人はまた目覚めます。この表現も「死者の復活」の信仰を前提とする表現です。
 このようにケリュグマにおいて、キリストの復活に基づいて「死者の復活」が宣べ伝えられているのに、信徒の中に「死者の復活などない」と言う者が出てきたのです。「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」(テモテU二・一八)と言われています。おそらく彼らは、信仰によって自分の内面に起こった変化を「死からの復活」だと解釈して、ケリュグマが告げ知らせる「死者の復活」、すなわち終わりの日にキリストに属する者たちがキリストの復活と同じ姿で復活するという告知を否定したのでしょう。現代の大部分のキリスト教会も、このような理由や他の違った理由で、実質的に「死者の復活」の信仰を否定しているのではないでしょうか。

死者の復活の否定

 コリントの信徒にあてた第一の手紙(十五章)に戻りましょう。コリントの信徒の中にも「死者の復活などない」と言う人たちが出てきました(一二節)。彼らはイエスが復活されたという事実を否定しているのではありません。「死者(複数形)の復活」を否定しているのです。キリストを信じる者たちが終わりの日に復活することを否定したのです。それに対してパウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言って、「死者の復活」を否定することはケリュグマそのものを否定し、信仰を否定することだと言っているのです(一三〜一九節)。そして、キリスト復活のケリュグマは「死者の復活」を含んでいることを、この十五章全体で明らかにしようとするのです。
 ここでパウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っています。この論理はすこし説明が要ります。現代人は自然科学的な立場と論理で、一度死んだ人間が復活することはありえないという前提から、死んだキリストが実際に復活したということはありえないと結論し、キリストの復活というのは、キリストの死後に弟子たちの内面に起こった劇的な変化を、弟子たちが「キリストの復活」として宣べ伝えたものにすぎない、と説明したりしています。
 パウロがここで用いている論理は、このような現代人の論理とは違います。「死者の復活」というのは自然科学的な概念ではなく、救済史的な概念です。すなわち、創造者なる神の人類救済の秘められた計画において、神は終末において神に属する民を死者の中から復活させることによって、その救いを業を完成されるという信仰です。ですから、もし神の救済のご計画に「死者の復活」がないのであれば、神の民の頭(かしら)、代表者であるキリストが復活されることもないはずだ、という論理です。

初穂としてのキリストの復活

 この「死者の復活」の信仰は、イスラエルの歴史においてもかなり後期になってやっと成立した信仰です。パウロの時代においてもサドカイ派の人たちは「死者の復活」を否定していました。当時のユダヤ教の主流になっていたファリサイ派はこの信仰を受け入れたので、これはユダヤ教の主要教義になっていました。信仰深いユダヤ教徒として、マルタは死んだ兄弟ラザロが「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と言っています(ヨハネ一一・二四)。このような背景の中で、ケリュグマは「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えた」のです(使徒四・二)。すなわち、イエスの復活を終りの日の「死者の復活」の始まりとして宣べ伝えたのです。イスラエルの歴史が永年かかって形成した「死者の復活」の信仰が成就したのです。終末が始まったのです。そしてさらに、「死者の復活」を否定し嘲笑する異邦の人々(使徒一七・三二)に向かって、イエスの復活の事実をもって「死者の復活」の信仰を根拠づけたのです。パウロは自分のケリュグマを「死者の復活」を宣べ伝えるものだと宣言しています(使徒二三・六)。
 「死者の復活」を否定する者たちに対してパウロはこう宣言します。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(二〇節)。ここではっきりと、キリストの復活が「初穂」だと言われています。初穂というのは、後に続く全収穫を代表し、保証するものです。キリストが復活したのは、やがてキリストにあって眠った人たち(死んだ人たち)が復活することの先取りであるというのです。終りの日の「死者の復活」にも「順序」があって、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち」が復活するのです(二三節)。キリストの復活と死者の復活とは同列の出来事として扱われています。キリストは「死者の中から最初に生まれた者」として、復活によって誕生する新しい人類の《プロトトコス》(初めの者)となられたのです(コロサイ一・一八)。
 このように、キリストの復活は聖書の約束の成就であると同時に、将来の死者の復活を約束し保証する出来事なのです。これは旧約聖書に見られる約束の重層構造の究極の形態です。約束の重層構造というのは、ある一つの約束の成就がさらに大きな約束を形成するという、イスラエルの啓示の歴史に見られる独特の構造です。旧約の預言と約束はことごとくイエスの十字架と復活において成就したのですが、その出来事が同時に、信じるすべての者に死者からの復活を約束する神の言葉になっているのです。ケリュグマは創造者なる神が罪と死の支配の下にある人類に与えられた究極の約束なのです。

初穂としての聖霊

復活信仰の根拠

 神がケリュグマによって「わたしはお前を死者の中から復活させる」と約束しておられると聞いても、その内容があまりにも人間の思いからかけ離れているので、とうてい信じられないのが普通です。このような途方もない信仰を可能にするのは、いったいどのような力でしょうか。

 第一は神の信実です。約束された方は至誠至信、その言葉は空しく消え去ることはありません。神が約束された以上、その約束は必ず実現します。この神の信が復活信仰の根拠です。
 第二は創造者としての神への信仰です。復活は終りの日の創造です。初めに天と地を創造された神(創世記一・一)は、終りの日に死者を復活させて、救済の業を完成されるのです。創造者なる「神は、御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(三八節)。初めに「自然の命の体」を創造して与えてくださった神は、終りに「霊の体」を創造されるのです(四二〜四九節)。創造信仰が復活信仰の前提です。(この点については第三講で詳しく触れることになります。)
 最後に何よりも、イエスを復活させた方の霊、すなわち聖霊が内に宿ることです。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。(ローマ八・一一)

 わたしたちは死に定められた体をもって生きていることは十分承知しています。死の現実から逃れうる者は誰もありません。それにもかかわらず、その死の現実の中で復活をなんらかの程度において現実として生きることができるのは、信じる者に与えられる聖霊の力によります。この聖霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」であり、復活に至る質の生命であります。イエスを復活させた生命と同じ質の生命に生きることによって、死者の復活という人の思いを超えた希望が現実に生きる力となってくるのです。聖霊が復活信仰の原動力です。

初穂としての御霊

 ケリュグマを信じる者、すなわち宣べ伝えられているキリストを信じる者に賜る聖霊は、「初穂」と呼ばれています。

「御霊という初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいるのです」。(ローマ八・二三 私訳)

 ここで聖霊について、復活されたイエスが「初穂」と呼ばれていたのと同じ語が用いられています。他の箇所で「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」と言われているのも、同じことを指しています(エペソ一・一四)。イエスの復活が、キリストに結ばれて眠りについたすべての者の復活の先取りであり保証であるように、信じる者の内に宿る聖霊は、彼が終わりの日に復活することを保証し、現在その内面において確証する力なのです。この力が死に定められた体の中で働くわけですから、そこにはうめきがあります。わたしたちは体があがなわれること、すなわち朽ちる体に代えて、朽ちることのない霊の体が与えられることをうめきながら待ち望まないではおれないのです。
 信じる者に聖霊が与えられることは「父の約束」です。イエスは弟子たちに繰り返してこの「父の約束」のことを語られました(使徒一・四〜五)。神の霊がすべての民に注がれるという約束は、旧約の預言者たちが終わりの日に成就すると語っていた祝福、終末的な約束です(エゼキエル三六・二六〜二七、ヨエル三・一〜五など)。その約束は、復活されたキリストが弟子たちに聖霊を注がれたペンテコステの時、成就しました(使徒二・三二〜三三)。今やこの約束は福音を聞いて信じるすべての者に与えられています(使徒二・三九、ガラテヤ三・二)。洗礼者ヨハネの後に来る方キリストは、水ではなく聖霊によってバプテスマする方なのです(マルコ一・八)。この聖霊はキリストを通して、すなわち、私たちの罪のために十字架され、復活して神の右に座したもう方を通して与えられます。キリストが十字架の上に血を流して贖罪の業を成し遂げてくださったから、今や信じる者は罪人でありながら、無資格のまま無条件で、賜物として聖霊を受けることができるのです(ガラテヤ三・一〜一四)。これが福音です。
 ケリュグマが、イエスが復活されたことを信じてキュリオスと告白する者は「救われる」と言う時(ローマ一〇・九)、「救われる」ということの中身は、聖霊を与えられることです。聖霊は、イエスを死者の中から復活させた霊、終末の時、来るべきアイオーンに属する生命です。そのような終末的な質の生命が、いま現に信じる者の中に働くのです。内に宿る聖霊が、「アッバ、父よ」と祈る神の子の実質を形成し、無条件で赦し敵を愛する愛に生きることを可能にし、復活という途方もない希望に生きる人生とするのです。復活は人間の理解を絶したもの、「目に見えないもの」です。その「目に見えない」将来が現在に突入してきている事態、それが聖霊の事態です。ですから、聖霊こそ希望の源泉です。わたしたちは聖霊の力によって、「見えるものにではなく、見えないものに目を注いで」生きることができるのです。
 以上お話したことをまとめますと、ケリュグマは次のように表現することができると言えます。これは「わたしのケリュグマ」です。すなわち、わたしが新約聖書が証言する伝承から受け、わたし自身の生涯の体験として生き、告白し、宣べ伝えている福音です。

「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために十字架につけられて死に、わたしたちの初穂として三日目に復活した。このキリストを信じて告白する者は、賜物として聖霊を受ける」。

 これが「キリストの福音」です。そして、キリストの現実は十字架、復活、聖霊の三つの事態に要約されることがお分かりいただけたと思います。以上、このケリュグマの内容がどのようなものであるのかをお話ししてきたわけですが、今回の講話では特に、復活の約束と希望がケリュグマの本質的な部分であることを明らかにしようとしました。お一人一人がこの福音にしっかり立って、復活の確固たる希望に生きてくださるように祈ります。