市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第9講

第三部 愛の諸相

     第二講 十字架の愛・聖霊の愛

            ― パウロの福音における愛 ―

パウロにおける恩恵の支配

パウロの恩恵体験

 パウロはイエスを信じる者たちを迫害する側の急先鋒でした。そのパウロが迫害の息をはずませてダマスコへ向かう途上で、パウロの全人生、全存在をひっくり返す決定的な体験をします。その結果、直ちにダマスコでイエスをキリストと宣べ伝え始めます。この決定的な転換をもたらしたダマスコ途上の体験についてパウロは詳しくは語っていませんが、書簡の言葉の端々からその体験の内容をうかがい知ることができます。
 第一に、パウロは復活されたイエスに遭遇したのです。この事実が迫害者サウロを使徒パウロにしたのです。パウロが使徒であることを疑う人々に対してパウロは、「わたしは主イエス(復活者としてのイエス)を見たではないか」と叫び(コリントT九・一)、復活されたイエスがご自分を現された証人のリストに自分の名を加えています(コリントT一五・八)。
 第二に、迫害者サウロを復活者キリストの証人に変えたこの体験は、同時に異邦人への使徒として召される体験でした。パウロは自分を異邦人に福音をもたらすために召された使徒であると自覚していましたが(ガラテヤ二・八、ローマ一一・一三)、パウロはこの自覚をダマスコ体験にまで遡らせています(ガラテヤ一・一五〜一六)。
 第三に、イエスの死が自分のための死であると知ったことです。わたしには、この点がダマスコ体験の核心であり、もっとも重要な内容であると思われます。パウロはガラテヤの信徒にあてた手紙の中でこう書いています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。(ガラテヤ二・一九〜二一)

 この文章はダマスコ体験から二十年以上も後に書かれたものですが、ここで告白されている内容は、ダマスコ体験の時以来のパウロの自覚であると見ることができます。パウロはイエスの十字架の死を、「わたしを愛し、わたしのためにご自身を(死に)引き渡された神の子」(直訳)の死と受け取っているのです。パウロはこの文で「わたし」という語を繰り返して用いています。十字架の意味を議論する一般論とは違い、パウロはここで「わたし」が体験した個人的な出来事を告白しているのです。パウロはイエスの十字架の死を、御子を通して自分に迫ってくる神の愛の出来事と受け取っているのです。
 この箇所でもう一つ注目すべき点は、キリストの十字架による救いの出来事を、パウロが「神の恵み」と呼んでいることです。パウロはイエス・キリストに敵対していた迫害者でした。そのパウロが、キリストの復活の命に入れられるという救いを体験します。パウロは、神の愛から出るこのような無条件の救いの働きを「神の恵み」と呼ぶのです。パウロはまた、敵対者であった自分に福音が委ねられて使徒とされたことを「神の恵み」と呼んでいます(コリントT一五・九〜一〇)。このように、受ける資格のない自分が救いと使徒職を受けるという恵みの体験を通して、パウロは神の恵みを宣べ伝える「恩恵の使徒」となるのです。
 新約聖書の諸文書の中で、「恵み」という語の分布を調べますと、パウロ書簡に圧倒的に多く用いられていることが分かります。「恵み」《カリス》という語は、新約聖書に一五六回出てきますが、その中の九六回がパウロ書簡(パウロの名による書簡を含む)です。福音書では、マルコとマタイには出てこず、ヨハネでは序文に四回だけ用いられます。ルカは福音書で八回、使徒言行録で一七回用いています。マタイに用例がないということは、語録資料Qには用いられていないことを意味しますので、イエスがこの語を頻繁に用いられた可能性は小さいと見てよいでしょう。イエスは「恩恵の支配」を告知されましたが、その事実を別の表現で語られたのです。「恵み」「恩恵」という言葉を福音と神学の中心に据えたのはパウロであると言えます。

信仰と恩恵

 ところで、パウロが救いのことを語るさいにもっとも多く用いる用語は「信仰」です。「信仰によって義とされる(救われる)」がパウロの福音の旗印です。では、わたしたちに救いをもたらす「信仰」とは、どういう事態なのでしょうか。「信仰」には、先に「信仰の諸相」で述べましたように、様々な相があります。その中で、「恵み」に関わる相、すなわち「信仰」とは神の恩恵を人間が無条件に受け取る姿であるという相が、信仰の重要な一面であると言えます。
 先に述べましたように、「恵み」とか「恩恵」というのは、神が人間の側の資格を問題にしないで、無条件に救いというよいものを与えてくださる行為です。この神の恩恵を恩恵として受け取ることが信仰です。すなわち、自分の側の功績とか資格とか働きの報酬としてではなく、そういうものが何もない場所で、神が恩恵として差し出してくださっているものを受け取ることが「信仰」です。「信仰」とは恩恵を受け取る空の手です。その間の消息を、パウロはローマの信徒への手紙四章で、アブラハムとダビデの実例をあげてこう言っています。

「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。(ローマ四・四〜五)

 ここで「働きと報酬」に対して「恵みと信仰」が対置されています。自分の側の働きとそれに対する報酬という原理で成立する場と、恵みとそれを無資格者として受け取る信仰の原理で成立する場が対照されています。信仰とは恩恵の場に成立する人間の姿です。神の無条件の恩恵にひれ伏している人間の姿です。
 恩恵がなければ信仰は成立しません。恩恵がなければ、人間は何らかの自分の働きで義とか悟りというような価値を獲得しなければなりません。一方、恩恵を恩恵として受け取る信仰がなければ、恩恵は宙に浮き、具体的な現実にはなりません。恩恵と信仰は表裏一体の関係です。同じ事態を、神の側に即して見れば恩恵となり、人間の側に即して見れば信仰となるのです。
 それで、パウロも信仰による救いを語るとき、それが恩恵の事態であることを同時に語るのです。たとえば、福音を告知するもっとも典型的な箇所であるローマの信徒への手紙三章二一節以下で、信仰による義を宣言してこう言います。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。(二一〜二二節)

 そして直後に、その事態が恵みによるものであることを続けています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。(二三〜二四節)

 ここで「恵みにより」と「無償で」という表現が平行して用いられています。「無償で」というのは、「賜物として」という意味の語で、報酬の反対に資格を問わないで与えられる贈り物としてという意味です。この恩恵と信仰の表裏一体の関係は、次の一句にもっとも簡潔に表現されています。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。(エフェソ二・八)

 ここで「恵みにより」と「信仰により」が等置され、それが自分の働きの結果ではなく、無資格の者に与えられる神の賜物であると説明されています。この文は誰が書いたにせよ、パウロの福音の核心を見事に表現していると言えるでしょう。

恩恵の支配

 イエスが「神の国」あるいは「神の支配」《バシレイア》を宣べ伝えられたのに対し、パウロはこの表現をあまり使っていません。しかし、《バシレイア》の動詞形である《バシレウエィン》(支配する)をキーワードとして用いている重要な箇所があります。それはアダムとキリストを対比したところ(ローマ五・一二〜二一)で、パウロ神学の頂点とか鍵とか言われている箇所です。
 この箇所でパウロは、一人のキリストによって多くの人が義とされて命を得ることができる消息を、創世記に記されたアダムを「型」として語っています。「実にアダムは、来るべき方(キリスト)を前もって表す者だったのです」(一四節)。創世記では、アダムが神に背いたために楽園から追放されて、地上で労苦と死に脅かされる者になったことが物語られています。このアダムの物語は、アダムという名が「人」という意味の語であることが示しているように、実は人間そのものの現実を物語るものです。その人間の現実を描くのに、一人の人アダムの背神の結果として語っているのは、やがて来るべき救済者、一人のイエス・キリストの働きの結果がすべての人に及ぶことを、前もって表すためであったというのです。一人の人の行為がすべての人に及ぶという点ではアダムとキリストは同じですが、方向は逆であり、様子は異なっています。

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。(一五節)

 このようにキリストによって与えられるものを「恵みの賜物」と呼ぶ文を前置きとして、アダムに代表される生まれながらの人間の場とキリストに代表される新しい人間の場が、罪と死の場と恵みと命の場という対照で描かれます。

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。(一七節)

 「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(二一節)。アダムに代表される場では、「死が支配する」とか「罪が死によって支配する」と言われています。生まれながらの人間は、本性的に神に背いていて、その結果死の支配を免れないのです。それに対して、「キリストにある」という場では「恵みが支配し」、キリストにある者は「恵みによって(敵対する諸力を)支配」して、永遠の命に至るのです。
 こうしてパウロにおいては、キリストにある者は恵みが支配する場にいるのであり、そのことは「恵みの下にいる」と表現されます(ローマ六・一四など)。「キリストにある」という場では、「罪が増すところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」(ローマ五・二〇)という逆説が成り立ちます。罪が増し加わるとき、その罪をも覆い尽くして無条件で受け入れてくださる神は恩恵は、それだけいっそう大きなものになるのです。神の恩恵は人間の罪よりも力強いのです。
 このような恩恵の逆説は、恩恵の場にいない者からはいつも批判の的になります。「では、恩恵が増すように、われわれは罪の中にとどまるべきだろうか」とか、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいというのか」という非難が向けられます(ローマ六・一、一五)。そのような批判は、神の恵みは聖霊の働きを実質とする力であることを知らないからです。また、信仰義認の恩恵を説くキリスト教会において、恩恵の教説が人間の現状を追認するだけの「安価な恵み」(ボンヘッファー)となっていると批判されるのは、その恩恵の教説が聖霊の力という実質を失って、観念的な信仰になってしまっているからです。
 恩恵は力です。聖霊の働きによる神の力です。それは、人間の側のあらゆる弱さや負の状況を圧倒する力です。恩恵はそれを無条件に受ける者を変えていく神の力でです。罪が現実に人間を支配する力であって死に至らせるように、恩恵も現実に人間を支配し、変革し、命に至らせるのです。罪の支配を圧倒する神の力です。それは、神の恩恵は聖霊を実質としているからです。
 パウロが「信仰によって御霊を受けた」ことを強調するとき(ガラテヤ三・二)、それは「恵みによって御霊が与えられた」ことを主張していることに他なりません。御霊は、キリストを信じる者に与えられる恵みの賜物です。神の霊を受けるにふさわしい清い者になったことへの報酬ではありません。同時に聖霊は、神の恩恵とは何であるかをわたしたちに悟らせる力です。パウロはこう言っています。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(コリントT二・一二)こうして、御霊は恩恵によって与えられ、同時に恩恵の実質をもたらす力です。この両方の意味で、聖霊は「恵みの御霊」です。恩恵と聖霊は切り離すことはできません。

聖霊の愛

十字架における神の愛の顕現

 パウロが「神の恵み」と言うとき、その核心は十字架につけられたキリストの出来事です。パウロは様々な形で、受ける資格のない自分に与えられるよいものという意味で「神の恵み」を体験してきました。そのすべての恩恵体験の根底にある最大の体験は、最初に述べたように、キリストが敵対する自分のために死んでくださったことを知った体験です。そのさいパウロは、キリストが「わたしのために死んでくださった」のは、「わたしを愛して」くださった愛の出来事であると迫られました。すなわち、パウロはキリストの十字架の出来事を、キリストにおける神の愛の啓示と迫りとして体験したのです。パウロにおいても、恩恵の源泉は神の愛にあります。
 パウロはこの個人的な神の愛の体験を後に、彼の福音のもっとも包括的な提示である「ローマの信徒への手紙」の中でこう表現しています。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。(ローマ五・六〜八)

 ここでは、「わたしを愛し、わたしのために死んでくださった」というパウロの個人的な体験は、「わたしたちのために死んでくださった」とか「わたしたちに対する愛」が示されたというように、「わたしたち」の問題として一般化されています。これは、パウロが個人的に体験した十字架の救いの出来事は、神の業であるという出来事の性質上、すべての人のためであるからです。パウロはこのことを次のように語ります。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。(コリントU五・一三〜一五)

 この文の前半の「わたしたち」は、キリストの愛を個人的に体験して、その愛に迫られて十字架の福音を宣べ伝えているパウロと仲間たちを指し、その代表者としてのパウロ自身を指していると見てよいでしょう。パウロはここで、人からは正気ではないと思われるほどの生き方は、キリストの愛に迫られ、駆り立てられているからであると言っています。キリストの愛は、人の生涯を決定的に変えてしまう現実的な力です。
 十字架の愛を体験し、その愛の力に迫られ生かされているパウロは、十字架の出来事を「その一人の方はすべての人のために死んでくださった」と考えざるをえないのです。ここでの「わたしたちはこう考えます」は決して頭の中の思考の問題ではありません。それは(ローマ三・二八の「わたしたちは考えます」と同じく)、一つの真理を啓示され、それに生涯をかけて生きている者の、全存在の重さをかけた宣言です。
 自分が体験したことは、それが神からの出来事である以上、すべての人のためのものであるとパウロは宣言するのです。キリストの十字架上の死はすべての人のための死です。そして、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。神の子キリストがその人のために(その人に代わって)死ななければならない人間は、その存在の根拠がなくなっているのです。自分が生きることを主張できる資格がないのです。自分が徹底的に否定されているのです。
 では、キリストはなぜ「すべての人のために死なれた」のか。それは、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」ようになるためである、とパウロは言います。キリストを受け入れ、キリストに結ばれることにより(すなわち、キリストにあって)、人間は自己主張する自我が死に、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んでくださった方のために生きるようになり、そのように生きることによって復活された方の命に生きるようになるのです。キリストの十字架と復活は、キリストを信じる者に命の質の転換をもたらすのです。
 これは、パウロ自身が体験したことでした。パウロはダマスコ途上で復活されたキリストに出会い、その死が自分のための死であることを示されたとき(あるいは、年月とともにその体験を深めて)、こう告白するに至ります。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。(ガラテヤ二・一九〜二〇)

 これはパウロ一人の体験ではありません。キリストはすべての人のために死なれたのです。このわたしのために死なれたのです。キリストが「わたしのために」十字架の上で死なれたとき、わたしは神の前に生きる資格のない者として徹底的に否定され、死んだのです。十字架の上でわたしが死んでいるのです。わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。この自己が否定された場で生きるのは、復活されたキリストです。死んだわたしの内に復活のキリストが生きておられるのです。こうしてキリストに合わせられることによって起こる死生の転換、あるいは生の質の転換こそ、パウロの福音の核心です。

聖霊によって注がれる神の愛

 イエスの十字架がすべての人への神の愛の啓示だと言っても、それを自分が体験するということはどうして起こりうるのでしょうか。たしかに、二千年も前の一ユダヤ人の悲惨な十字架刑の死が自分への神の愛の証拠だと言われても、だれもそれを納得したり実感したりはできません。百万言を費やしても説明できることではありません。それは神の御霊だけが示すことができる奥義です。御霊が働かれるとき、パウロが語り、聖書に記されている言葉が、突如自分の魂の体験となります。今まで空想の世界としていたことが、突如何よりも確かな現実となります。
 パウロは、神の栄光にあずかる希望が空しくなることはないという確信の根拠として、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と言っています(ローマ五・五)。そして、この文の直後に「……キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」という先に引用した文(ローマ五・六〜八)を続けているのです。この前後(ローマ五・一〜十一)の文の流れを見ますと、キリストにあって受けている和解、平和、恵み、希望というようなことすべての確かさが、「わたしたちに与えられた聖霊によって」自分の心に直接注がれている神の愛を根拠としていると理解できます。
 この聖霊によって注がれる神の愛が、キリストにあって生きる者がすべてに勝利する力の源泉であるという消息を、パウロはローマ書の頂点と言うべき八章において壮大に展開しています。この章でパウロは、キリストにある者は(律法ではなく)御霊によって生きる者であり(一〜一一節)、御霊に導かれる神の子としてキリストと共に栄光にあずかる希望に生きる者であること(一二〜三〇節)を力強く語ります。そして、最後に御霊に生きる者の勝利を謳います(三一〜三九節)。それは神の愛への賛歌です。ここには聖霊という表現は出てきませんが、八章全体の流れから見て、これが聖霊に満たされておのずから溢れ出る賛歌であることは容易に理解できます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」の愛への賛歌です。すこし長くなりますが、その賛歌を引用しておきます。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(ローマ八・三一〜三九)

聖霊の働きとしての愛

 パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるにさいして、「律法なしに」、または「律法とは別に」に与えられる神の義、神の救いを宣べ伝えました。キリストは律法の終わりとなられたのです。キリストにある者は恩恵の下にいるのであって、もはや律法の下にはいません。しかし、人間の本性は自分の内から発するものだけに基づいて生きるという意味の自由には耐えられない一面があります。実際の生活において、自分の行為を律してくれる外からの規範とか規則に頼りたいという本性があります。それで、パウロから福音を受け取った異邦人の信徒、たとえばガラテヤの異邦人信徒が、後から来たユダヤ人伝道者に説得されて割礼を受け、神の聖なる戒めとされるモーセ律法を守って生活するようにしようとした心情も理解できます。
 それに対してパウロは猛然と反対します。割礼を受けて律法を守ろうとすることは恵みから脱落すること、キリストから離反することだと、激しい言葉で反論します(ガラテヤ五・二〜四)。では、キリストにある者は実際の生活で何を基準にして生きればよいのかという問いに対して、パウロは「聖霊による愛」だけを指し示します。まず、愛に生きることが律法を成就するのであると前置きして(ガラテヤ五・一三〜一五、なおローマ一三・八〜一〇も参照)、それが御霊に従う歩みによって初めて可能になると説きます(ガラテヤ五・一六〜二六)。
 まず、「御霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と原理を述べ、「律法の下にいる」ならば、すなわち外からの規制に頼って生きようとする限り、生まれながらの人間本性(パウロはそれを肉と呼んでいます)を抑えることはできず、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」に陥ります。こうして「肉の業」を数え上げた後、「これに対して、御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と、御霊に導かれて生きる生活の姿を対照させます。そして、「これらを禁じる掟はありません」という要約の言葉で、御霊が結ぶ実こそ律法が求めているものの成就であることが示唆されます。
 ところで、ガラテヤ書でパウロが「御霊の結ぶ実」として愛と共に数え上げている喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などは、愛と別のものではなく(「実」は単数形)、愛がその働きにおいて示す様々な姿であることが、コリント書簡の表現と比べると分かります。コリント書簡では、力ある業や預言や異言など聖霊の働きと現れが「聖霊の賜物」と呼ばれて詳しく扱われていますが、その聖霊の働きの中で最高のものとして愛が指し示されます。それが新約聖書の中でも特に有名な「愛の章」です(コリントT一三章)。そこで聖霊の働きとしての愛はこのように描かれます。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。(コリントT一三・四〜七)

 これをガラテヤ書の「御霊の結ぶ実」と比べますと、細かい表現では違いがありますが、内容では大部分重なっていることが分かります。そして、ガラテヤ書で寛容、親切、善意などと愛と並ぶ項目として挙げられていたものが、コリント書ではすべて愛の働きの姿として、愛を主語として語られていることに気づきます。両方で挙げられている項目がすべて聖霊の働きであることに変わりはありません。こうしてパウロはガラテヤ書でもコリント書でも、キリストにある者の歩みの原理として、律法に代わって聖霊による愛を指し示していることが分かります。
 こうしてパウロが聖霊の働きとしての愛に生きるように求めるとき、その具体的な現れはイエスのお言葉と同じになっているのに気づきます。たとえば、パウロはローマ書で信徒の歩みについて勧めるとき(一二章以下)、愛を中心に置き、愛の具体的な現れについて語っています(ローマ一二・九〜二一)。そこでパウロは次のように言っています。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。・・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

 ここには、「自分のように隣人を愛しなさい」という根本律の「隣人」を、相手の価値や状況に絶した「絶対愛」の原理によって、敵にまで及ぼされたイエスの愛敵の精神が貫かれています。ただそのさい、パウロはイエスの言葉を権威として引用していません。すなわち、イエスがこう教えられたのだから、イエスの言葉に従いなさいとは言いません。あなたがたは聖霊によって神の愛を受けたのだから、聖霊に従うことによって愛に生きなさいという勧めが、おのずからイエスの言葉と同じ内容になっているのです。
 このことは、イエスの「神の国」宣教とパウロが宣べ伝えた「キリストの福音」が同じ御霊から発するものであり、基本的には同じ内容のものであることを意味しています。イエスはメシアとして、すなわち神の霊を注がれた者として、父の慈愛の現実に生き、そこから出る恩恵の支配を宣べ伝えられました。その究極の表現は、「あなたがたの父が慈愛深い方であるから、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」というお言葉でした。パウロは神に敵対していた者として、「わたしのために死んでくださった」キリストの十字架にひれ伏し、十字架の場で聖霊を注がれて神の愛を体験し、聖霊の働きとしての愛を宣べ伝えたのでした。
 わたしたちにとっては、このキリストの十字架の場における聖霊の働きによって初めて、イエスのお言葉が実現するのです。わたしたちの生まれながらの本性は自己中心であり、「父の慈愛」のように絶対無条件の愛に生きることはできません。その自己がキリストの十字架に合わせられて死ぬことによって初めて、恩恵として賜る聖霊の命が内に生きるようになるのです。そして、その聖霊の働きとして初めて、わたしたちは神の愛を体験し、その愛をもって生きることができるのです。こうしてパウロは、イエスが直截に語られたお言葉の構造を、十字架の場で賜る聖霊の働きとして明らかにしたことになります。