市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第5講

第二部 信仰の諸相

     第一講 言葉の出来事としての信仰

はじめに

信仰の法則

 万物は法則に従って存在しています。人間も同じです。ですから、人間も人間存在に関する法則に従って存在するときに、人間本来の姿を完成することができるのです。古今の宗教や哲学はすべて、この法則を探求する人間の努力であるといってよいと思います。人間はどのような法則に従って生きるときに、その本来の姿を完成するのか。この人間にとってもっとも基本的な問いに対して、福音は明確な答えを与えています。人間は信仰によって生きるのです。イエスは苦しんでいる人々を神の力によって救われましたが、その出来事をいつも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。使徒パウロは、信仰によって義とされることを福音として宣べ伝え、「義人は信仰によって生きる」という預言者の言葉を標語として掲げました。義人というのは完成された本来の人間ということですから、この言葉は本来「人間は信仰によって生きる」ということになります。すなわち、人間は信仰によって本来の姿で生きるようになり、その存在の規定を成就するということです。これが人間存在の根本法則です。この法則のことを、聖書は「信仰の法則」と呼んでいます(ローマ三・二七)。福音がこの法則を発見し確立したことは、人類の歴史において時代を画する決定的な出来事であったのです。

「信仰」の意味

 では、それによって人間が救われ、義とされ、完成される信仰とは、どのような事態でしょうか。今回は、この問題を三回に分けてお話ししようと思います。その際、ここでいう信仰の質をより鮮明にするために、様々な宗教で信仰と呼ばれている事態と比較対照しながら、お話を進めていきます。それで、今回ここで信仰という言葉を二つの意味で用いることになりますので、初めにそのことをお断わりしておかなかければなりません。一つは広い意味での信仰です。それは広く、人間の宗教的な営み、すなわち人間が聖なるものと関わるさいの姿全般を指しています。「鰯の頭も信心から」といわれる信仰から、禅の悟りにいたる、人間の宗教的な営みを広く指しています。ですから、この広い意味での信仰とは、ほとんど「宗教」と同じくらいの意味だと理解してくださって結構です。第二の意味は、狭い意味での信仰、すなわちここで主題として取り上げている信仰、福音の場における信仰、人がそれによって救われ、義とされ、真実に生きるようになる信仰のことです。この信仰の質を、第一の広い意味における信仰の様々な姿と対照することによって、より鮮明に示すこと、これが今回の「信仰の諸相」と題した講話の目的です。最初に三回の講話の題名と要旨をかかげておきます。
  第一講 「言葉の出来事としての信仰」
         ― 神話・祭儀的宗教と対照して預言者的信仰の質を探求する。
  第二講 「恩恵の支配としての信仰」
         ― 律法的宗教との対比でイエスの信仰の世界を提示する。
  第三講 「キリスト体験としての信仰」
         ― 悟りの宗教としての仏教と比較して使徒的信仰の内実を語る。

日本人の信仰

宗教的動物としての人間

 人間は宗教的動物です。どんな原始的な段階の文化にも宗教があります。人間は身体だけでなく、霊的次元の存在ですから、霊的次元の働きとして、必然的に宗教的な営みをいたします。その最も素朴な現れは、アニミズムと呼ばれる宗教形態でしょう。それは、周囲の動物(たとえばキツネ)や植物(とくに樹木)、さらに石や山や川や太陽などの自然界のいたるところに霊の存在と働きを認めて、それを畏怖して祭るという宗教形態です。それと並んで、人間の最も素朴な宗教心の現れとして、祖先崇拝があります。これは死者の霊魂が現在のイエや部族などの生活に幸いや禍いをもたらすと信じて、祖先の霊を畏怖して祭るという宗教形態です。そして、自らは脱魂状態になって、このような他界の霊に取りつかれて語る人物(シャーマンと呼ばれる)によって行われる宗教形態(シャマニズム)も、原初的な段階の社会に広く見られるものです。
 原初的な段階の社会では、宗教はその社会の生活と文化の一部ではなく、全部であったのです。部族であれ、民族であれ、ある社会は、牧畜とか農耕とか生産形態によって違ってきますが、その社会の存続に不可欠の営みとして、宗教的営みを繰り返してきたのです。獲物がとれ、作物が実り、社会が秩序をもって存続するには、宗教が必要なのです。いや、彼らの全生活が宗教なのです。そして、彼らの現在の社会の秩序や基礎は、太古の時代の神々の行為として物語られました。それが神話です。神話とは、現代のわれわれが考えるような、現在と何の関係もない昔物語りではなく、現在の生活を全面的に基礎づけ規定する永遠の事実を物語るものなのです。その太古の神々の行為という聖なる「祖型」を現在に実現させるために、彼らは繰り返し儀礼を行うのです(エリアーデ)。ですから神話と儀礼は彼らにとって生存の基礎そのものなのです。

日本の農耕祭儀

 広く世界の諸民族の宗教に触れることはできませんので、実例として、わたしたちに最も身近な日本の宗教を取り上げてみます。日本人は農耕民族ですから、作物の豊穣を語り祈る神話と儀礼が中心となります。すでに縄文の昔から、作物を生み出す大地の生産力を「地母神」として、デフォルメされた女性像を用いて祭っていたようです。弥生時代には、春の収穫祈願のトシゴヒ祭や秋の収穫感謝のニヒナメ祭が行われていました。農作物の起源については、殺された神の死体の各部分から様々な作物が生じたとするオオゲツヒメ神話やウケモチノカミ神話が語り伝えられていました。この地母神信仰や死体化生神話は、広く世界の諸民族に見られるもので、日本にも自然発生的にこのような形の宗教が行われていたのです。稲作が普及すると、田の神が祭られましたが、田の神は「サ」と呼ばれたので、その神を迎え送るサオリ・サノボリとか、サナエ・サオトメというような田の神の祭の用語が残っているわけです。
 日本人の宗教にとって重要なもう一つの形は、祖先崇拝、あるいは祖霊崇拝です。これは、死者の霊が地上の子孫の生活に守護や災禍をもたらすという信仰から祖先の霊を祭ったものですが、これが血縁共同体である氏族の共通の先祖の霊を氏神として祭るようになります。氏神信仰は祖霊崇拝の日本的な形態であるわけです。先祖霊は年毎にイエに帰ってきて子孫から祭を受けるわけですが、日本人は稲作民族ですから、祖霊は稲霊(稲作を守る田の神)と融合して祭られるようになります。春と秋の稲作の祭が、イエに帰って来る祖霊の祭と一緒になります。正月とお盆は、実は、初春と初秋に行われる田の神の祭と一体となった先祖祭に他ならないのです。お盆は仏教的な衣をまとうことになりますが、実態は日本古来の先祖祭です。正月とお盆は、日本人がもはやそれと意識しないほど体にとけ込んでいる宗教の祭なのです。まさに「日本教」という宗教の大祭なのです。
 それから、もう一つ日本人の信仰を形成する要素としてシャマニズムがあります。これは、脱魂状態(トランス)になって霊と交流し、霊界からのお告げを語る人物(シャーマン)による宗教です。ヒミコもこのようなシャーマンであったと言われています。ヒミコから現代の新興宗教の教祖にいたるまで、日本の宗教にはシャーマンの系譜が連綿と続いているわけです。
 古代の日本人は、タマ(霊魂)とコトダマ(言霊)信仰に生きていたようです。タマとは本来霊力呪術の観念を表す用語で、人のタマを振り動かして活力を与えるタマフリの呪法や、タマが衰え遊離するのを防ぐタマシヅメ(鎮魂)の呪法が行われました。そして、言葉にもタマを動かす呪力があるとして、めでたい言葉はめでたい結果を、不吉な言葉は不吉な結果をもたらすと信じられていました。これがコトダマ(言霊)信仰です。

三つ子の魂

 このような形態の宗教が日本人の信仰です。それは漠然と「神道」と呼ばれています。それはもはや、日本人自身にも宗教とか信仰とは意識されないほど、魂の基底を形成しております。この信仰は、仏教が国教になり貴族階級の宗教になっても、儒教やキリスト教が入ってきても、科学の時代になっても、民族の「三つ子の魂」として、現代にいたるまで変わることなく居座り続けています。ある宗教学者はこのような信仰形態を「基層宗教」と呼んでいます。
 日本人の基層宗教としての神道は祭りの宗教です。自然界に宿る霊や祖霊で異能をあらわすものはすべて、カミとして畏れかしこみ、マツリをしたのです(マツリとは慎んで上位の者に奉仕するという意味の動詞マツル・マツラフの名詞形です)。それはカミが住むとされる異境の地と人里との境界地にマツリノニハを設け、榊などのヨリシロを立てて、聖なる夜(忌夜、ヨミヤ)にカミのミアレ(顕現)をマツことです。このカミはミコトとも呼ばれています。マツリはミコト(神言)が現れるのをマツことです。そしてコト(言)はただちにコト(事)であったのです。祭主はミコトを受けて伝える者ですから、ミコトモチと言われます。こうして行われるカミマツリが、共同体を治めるマツリゴトになります。そのようなマツリが行われる施設が恒常的なものになったのが、ヤシロ(社)です。
 このような自然発生的な宗教が、ヤマト朝廷の成立にともない、その政権の正統性を根拠づけるために統合されるようになります。地方の各氏族の神話は統合されて「古事記」と「日本書紀」になります。その頃、外から入ってきた仏教に対して、このような日本固有の自然宗教が「神道」と呼ばれるようになります。その後、律令体制の進展にともない、神祇制度が整えられ、各地のヤシロは位をつけられて階層的秩序に統合され、国家祭儀に組み入れられていきます。さらに、この民族宗教は仏教や儒教と習合して様々な形の教派神道を生み出します。明治期には近代国家統合のイデオロギーとして国家神道になり、国民を破滅の危機に陥れます。戦後、神社は一宗教法人になりますが、現在の日本人の生活を見ますと、ほとんど意識されない形で、先祖の神話的・祭儀的宗教が生きているのが分かります。

イスラエル預言者におけるヤハウェの言葉

バアル宗教

 このように、わたしたち日本人の体の中に染み込んでいる信仰は、福音的信仰に対してどのような関係に立つのでしょうか。わたしたち福音的信仰に生きようとする者は、この種の信仰に対してどのように対処すべきなのでしょうか。この問題の回答の鍵は、イスラエル預言者たちが与えてくれています。
 イスラエルの民は神の力によってエジプトから救い出され、荒野でヤハウェと契約を結び、約束の地カナンに入って定住するにいたりました。ところが、このカナンの地には古くから土着の宗教があり、イスラエルの民はヤハウェとの契約を保つためには、土地の宗教からの誘惑と激しく戦わなければならなかったのです。土地の神は「バアル」と呼ばれていました。「主」とか「所有者」という意味の語です。バアルは天候を司り、植物を育てる神として祭られ、アシラという女神を妻として伴い、豊穣神として一緒に拝まれることが多かったようです。アシラはもともとフェニキア・カナン系宗教の豊穣女神で、至高神エルの妻ですが、パレスチナに入って、土地の豊穣神バアルの妻として、一緒に祭られるようになったものです(列王記上一八・一九など)。
 また、カナンではアシタロテという神も拝まれていました。これはバビロニアのイシュタルに相当する西セム人の豊穣女神ですが、イシュタルの戦争女神的な面は後退して、豊穣女神としての性格が強くなっています。旧約聖書では「天の女王」とか「天后」とも呼ばれています(エレミヤ四四・一七以下)。この女神を祭って豊穣を祈る祭儀は性的なもので、その祭儀が行われる場所は「聖なる高台」と呼ばれ、神殿娼婦が置かれていました。生殖と豊穣が結びついて、豊穣を祈る祭儀に性的な象徴が用いられるのは、世界共通の現象のようです。
 その他、モアブ人の神ケモシ、アンモン人の神ミルコムなどの神々のために聖なる高台が築かれ、祭儀が行われました(列王記下二三・一三)。このような土地の神々は一括して「バアル」の名で呼ばれることもあったようです。このバアルの聖なる高台で、イスラエルの人々は豊穣繁栄を求めて、神話が語る神々の像を造り、その前で香をたき、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸にふけり、ときには息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのです(エレミヤ一九・五)。

預言者たちの戦い

 このような神々の祭儀は、イスラエルの中ですでに士師たちの時代から行われていました(士師記一〇・六など)。サムエルはこれをきびしく非難し、ヤハウェだけに仕えるように求めています(サムエル記上七・三)。このような祭儀信仰はヤハウェ信仰ときびしく対立します。バビロン捕囚にいたるまで、預言者たちは土地の神々の祭儀を激しく攻撃し、イスラエルにヤハウェ信仰に立ち帰るように叫びました。その代表的な預言者がエリヤです。彼は、アハブ王の妻イゼベルが出身地のシドンからもってきたアシラなどのバアル祭儀と戦い、その祭司たちとカルメル山で対決します(列王記上一八章)。彼は権力と結びついた神々の祭儀と命がけで戦い、イスラエルにヤハウェ信仰を確立しようとします。ホセヤは淫行の妻の象徴をもって、そのような祭儀はヤハウェに対する淫行であって、それがイスラエルの罪であることを示しました。イザヤもアシラの祭儀を裁いています(一七・八)。
 このような預言者たちの批判にもかかわらず、バアル祭儀はなくなりませんでした。それで、ヨシヤ王が断行した申命記改革は、各地の聖なる高台を取り壊し、ヤハウェの神殿の中にさえあるバアル祭儀の用具を焼き払い、エルサレム神殿以外での祭儀行為をいっさい禁止したのです(列王記下二三章、申命記一二章)。それでもバアル祭儀は根絶することができなかったのです。エレミヤは捕囚にいたるまでこの祭儀と戦わねばなりませんでした。
 このようなバアル祭儀に対する預言者たちの戦いを通して、ヤハウェ信仰の質が明らかにされてきます。バアル祭儀は人間の生活の中から自然に発生する自然宗教です。土地の生産力を神とし、神話が語るその神々の原初の働きを現在に確保するために行う祭儀です。このような神話と祭儀は世界のすべての民族にあります。先に見たように、日本に固有の宗教も同質のものでした。イスラエルも例外ではないのです。それに対して、ヤハウェ信仰はまったく別の質の信仰です。ヤハウェは荒野で民に現れます。土地の生産力を神とする余地はありません。ヤハウェは民に語りかけ、その言葉で民と契約を結びます。ヤハウェの言葉が、それを聴いて受け入れる民を神の民とします。その言葉が神と人、人と人との関係を規定し、創り出していきます。そして、その言葉が民の地上の歩み(歴史)を創り出していくのです。バアル信仰は人間の側から発する神話と祭儀に基づいています。それに対して、ヤハウェ信仰は人間を超えた向こう側から語りかける言葉に基づいています。捕囚までのイスラエルの歴史は、この二つの信仰が激しく戦う舞台となったのです。

神の言葉の出来事としての歴史

 預言者というのはヤハウェの言葉を聴いた者です。彼らはその体験を「ヤハウェの言葉がわたしに臨んだ」と表現しました。彼らはヤハウェの言葉に捉えられ、その言葉を民に語るように召された者です。その言葉は目前の出来事や歴史を解釈する言葉だけではなく、出来事を引き起こし、歴史を創り出していく言葉です(エレミヤ一・九〜一〇、一・一二)。預言者にとっては、自分の実存も世界の歴史もすべて、神の言葉の出来事なのです。
 ヘブライ語で言葉は《ダーバール》と呼ばれていますが、《ダーバール》はコトバであると同時に、コト、出来事、歴史でもあるのです。預言者たちのダーバール体験とそれに基づく信仰が、イスラエル宗教の核心を形成しています。彼らは荒野でモーセを通して与えられた契約の言葉(十言)を、ヤハウェとイスラエルおよび民の間の関係の根底に据え、土着の神話的祭儀宗教と激しく戦ったのです。捕囚のすこし前に成立した申命記には、このようなヤハウェの言葉だけに立つ預言者的信仰と、神話的祭儀信仰(偶像礼拝)に対する彼らの嫌悪感がよく示されています。このような預言者的信仰の観点からイスラエルの歴史が編集されて、申命記派歴史書(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)が書かれ、さらに古い諸伝承が統合編集されてモーセ五書が成立し、旧約信仰の骨組みが出来上がります。
 預言者たちが身命をかけて証言したダーバール信仰においては、あらかじめ与えられた言葉《ダーバール》とその成就としての出来事《ダーバール》の緊迫した関係がその基本的な構造となります。すなわち、(言葉の広い意味における)約束とその成就が預言者的信仰の基本構造であると言えます。

約束と成就の構造

 この約束と成就の構造はアブラハム物語に典型的に語られています。預言者的信仰は、イスラエルが神の民として存在していることも、カナンの土地に定住していることも、すべてアブラハムに与えられた約束の成就と理解したのです。そして、ある約束の成就としての出来事が、さらに大きな将来への約束の言葉となるという重層的な構造をとっております。たとえば、ダビデが王位につき、ダビデ王国が成立したことは父祖たちへの約束が成就した出来事ですが、その出来事が同時に、将来メシアが来臨して神の支配が地上に実現することの型となり約束となります。このように、神話的祭儀信仰が太古の昔の神々の働きを祭儀によって繰り返し現在に実現しようとする(永遠回帰の神話)のに対して、預言者的信仰は現実の歴史に神の言葉を聴き、その言葉によって来るべき将来を約束する終末的な質の信仰となるのです。
 このような預言者的信仰は、イスラエルの歴史のどん底というべきバビロン捕囚期に出た第二イザヤと呼ばれる無名の預言者によって、もっとも壮大深遠な形で完成提示されます(イザヤ書四〇〜五五章)。この預言者においては、ヤハウェはもはやイスラエルの民だけの神ではなく、「地の果ての創造者」です。すなわち、み言葉によって世界を創造し、世界の諸民族を裁き、救い完成させる方です。創造から完成まで、世界の出来事はすべて神の言葉の出来事とされます(イザヤ五五・一一)。

福音における言葉の出来事

キリストの言葉

 福音における信仰は、この預言者的信仰を継承し、完成するものです。すなわち、福音において信仰とは、神の言葉がそれを聴く者に引き起こす出来事なのです。そのことを聖書はこう言っています。

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。(ローマ一〇・一七)

 信仰は神の言葉を聴くことによって生じる出来事ですから、信仰という事態が生じるためには、神の言葉が語りかけられていなければならないわけです。では、その神の言葉はどこに聴くことができるのでしょうか。ここでは「聞くことはキリストの言葉から来る」と言われています。「キリストの言葉」とは、キリストが語られた個々の言葉ではなく(それも含みますが)、キリストという言葉、すなわちキリストの存在と生涯、とくにその十字架と復活の出来事が、神からの語りかけの言葉であるという意味です。そのことを聖書は他の所でこう言っています。

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
この終わりの時には、御子(キリスト)によって、わたしたちに語られたのである」。(ヘブル一・一)

 「言は肉体となってわれらの中に宿った」のです(ヨハネ一・一四)。イエスは預言者でした。イエスに神の言葉が臨み、イエスはその言葉を語られました。イエスの言葉には大いなる神の力が伴いました。民衆はイエスを偉大な預言者として歓呼して迎えました。イエスが語られたエルサレム神殿の破壊という重大な預言の言葉は、その言葉通り実現しました。同時に、イエスは預言者以上の方でした。預言者たちは「主は言われる」と語りましたが、イエスは「わたしは言う」という形で神の言葉を語られました。そして、死者の中から復活して主またキリストとして立てられた時、その生涯の全体、その存在そのものが神の最終的な語りかけの言葉となったのです。
 それはイエスの生涯の事実、とくに十字架と復活の出来事が、イスラエルの歴史の中で預言者たちが語ってきた約束の最終的な成就であったからです。さらに、それは過去の予言と約束の成就であるだけでなく、同時に将来への約束でもあります。これはイスラエルの歴史に見られた約束と成就の重層構造の最終段階です。イエスの生涯の出来事は、予言の最終的な成就であるゆえに、神の最終的な約束の言葉となるのです。
 十字架は「多くの人のために流される血」として、現在罪の赦しを与えるだけでなく、新しい契約の土台として終わりの日の義を保証します。また、イエスの復活は終わりの日に死者の中から復活する神の民の初穂です。イエスの復活は彼に属する者の復活を約束し、保証しているのです(コリントT一五章)。この将来に対する約束の成就の確かさが、キリストの来臨(パルーシア)として語られます。ですから、将来の来臨もキリストの出来事の本質的な部分です。
 この主イエス・キリストの生涯の事実、とくに十字架と復活の出来事を、告げ知らせる言葉が福音です(ローマ一・二〜四)。キリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死に、三日目に復活したという福音の言葉を信じて受け入れ、その言葉によって生きるならば、この福音によって救われるのです(コリントT一五・一〜五)。
 たしかに福音はキリストの出来事を告げ知らせる言葉であって、出来事そのものではありません。しかし、その福音の言葉を信じる者には、救いという出来事がその身に起こるのです。神がこの宣教の言葉を信じる者を救うことをよしとされたのです(コリントT一・二一)。

「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる」。(ローマ一〇・九)

絶信の信

 ここで「信じる」ということについて、誤解のないようにお話しておかなければなりません。普通、「信じる」とか「信仰」というと、何か外にある対象に向かって、それが理解できない事柄であっても、それを本当だと確信して、その確信に忠実に生きることだとされています。その際、その確信とか忠実さの根拠は、人間の側の誠意とか真実に求められます。しかし、もしわたしたちが自分の内側にある誠意とか真実に基づいて福音を信じようとしても、そのような信仰は必ず行き詰まり破綻します。福音の内容、すなわちキリストの出来事は、あまりにも人間の思いとか意志の力を超えているからです。こういう意味での信仰は、福音の前では成り立たず、いっさい破棄されてしまうのです。わたしたちは、もはや自分の側の誠意とか真実とかをいっさい放棄して、ただその言葉を語り出された方の信、すなわち語った言葉を必ず成し遂げる神の側の誠意だけを当てにして、自分の全存在をその言葉に投げかけるのです。自分の信仰に絶して、神の信に委ねきるのです。これが「絶信の信」です。自分を無とする場において成立する信仰です。
 そのような信仰によって福音の言葉を聴くとき、その言葉はただちに出来事となります。言葉を出来事にする神の働きは聖霊によります。福音が語られ、その言葉が信仰によって聴かれる場には聖霊が働き、キリストの出来事が起こります。

あなたがたが聖霊を受けたのは、律法の業を行なったからか、それとも信仰をもって聴いたからか」。 (ガラテヤ三・二 私訳)

 もちろん、信仰をもって聴いたからです。聴いて、それから信じるという二段構えではありません。神の信実に全存在を委ねてみ言葉を聴くとき、聴くことがただちに信仰なのです。そのように福音の言葉が聴かれるとき、聖霊が注がれ、福音の言葉が聴く者の身に出来事となります。キリストがわたしの罪のために死に、わたしの復活の保証として復活されたことが現実となります。そして、このキリストの死に合わせられてわたしも死に、復活されたキリストがわたしの中に生きてくださるようになるのです(ガラテヤ二・一九〜二〇)。十字架の言、復活の言が出来事となります。わたしがキリストに合わせられるという出来事が起こるのです。「信」という文字は、人偏に言と書きます。人と言が一つになっている姿です。本来は人が言をたがえぬことを意味する語でしょうが、福音の場では人間の言葉は沈黙します。それは神の言が人と一つになっている姿です。神の言であるキリストが人と一つになっている事態です。信仰とは神の言葉の出来事なのです。

日本人の信仰と福音

唯一の神への立ち帰り

 このような神の言葉の出来事としての信仰は、最初に見たような日本人の古来の民族信仰とは、鋭く対立します。イスラエルの預言者たちが、土着の豊穣神話の神々の祭儀と激しく戦わなければならなかったように、この国では、福音は今も土着の民族宗教と戦って、これを克服しなければならないのです。日本においては、神話的祭儀信仰は古代のことではないのです。生活の外観は近代化しましたが、その魂の奥底には、古代の信仰がいまも居座り、生き続けています。日本の場合のように、長い歴史の中でその民族の文化となってしまっている民族宗教を克服することは、きわめて困難であると言われています。しかし、これを克服しなければ、この国に福音の真理を確立することはできないのです。
 まず、土地の神は数多くあります。人間の生活や欲求から生まれ出た神々は、田の神、山の神、商売の神、出産の神、キツネの神などなど、それに各地の氏族の氏神を加えて、八百万(やおよろず)の神と言われますように、数え切れないほどあります。人間にすぎない祖先の霊も、人間の欲求の神話化にすぎない神々も、人間存在の根源的な矛盾を解決し、全体としての人間を完成することはできないのです。それに、その神々がアマテラスを最高神とし、その子孫である天皇を大祭司として統合されても、その宗教は日本人という一民族の枠内での宗教であって、その神は日本人だけの神です。そのような神だけしか知らない信仰は、他民族の人々の人権を尊重したり、他民族に仕えるというようなことはできません。むしろ、自分たちだけを神の選民として、他民族を支配することを当然とします。そのような信仰がいかに身勝手な一人よがりであるかは、痛烈に体験したばかりであるのに、日本人はこの宗教における後進性からまだ脱却できないでいるのです。現在の日本に最も必要なものは宗教改革です。福音によって、このような原始的な神話的多神教から、天地の創造者にして歴史の主宰者、生命の根源にして人類の完成者である唯一の神の信仰に立ち帰ることです。それを成し遂げなければ、日本人は真に国際社会に仲間入りすることはできないでしょう。(一神教に改宗すればよいと言っているわけではありません。一神教の立場の宗教の問題点については第二講で触れます。)