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第一部 キリストの諸相

   第一講 イエス・キリスト

            ― ペトロのキリスト宣教 ―

はじめに

 キリストとは復活者のことです。復活者キリストに出会い、キリストと共に生きた人々が、自分たちが体験したキリストを告白し、宣べ伝えた宣教活動から生まれた文書が新約聖書です。新約聖書に告白されているキリストは同一のキリストですが、キリストを体験した人物の歴史的状況によって、キリストは様々な相を示すようになります。今回はこのキリストの多様多彩な諸相のうち主要な三つのタイプを、それぞれを代表する人物、ペトロ、パウロ、ヨハネのキリスト告白にしたがって見ていきたいと思います。
 まず最初にキリストを宣べ伝えたのは、生前イエスの弟子であった人々でした。彼らは自分たちが親しく接し目撃した地上のイエスの働きと教えを語ることによって、復活者キリストを宣べ伝えたのです。このイエスこそ復活者キリストにほかならない、と。彼らはみなガリラヤのユダヤ人でした。彼らが宣べ伝えたイエス・キリストはマルコ福音書とマタイ福音書にまとめられ保存されていますが、そこに示されているキリストは典型的なパレスチナ・ユダヤ人のキリスト像です。その中でもっとも特色あるキリスト像は「人の子」としてのキリストであると言えます。
 まず第一講では、彼らイエスの直弟子であった人々の代表としてペトロを取り上げ、ペトロが体験し宣べ伝えたキリストを見ていきましょう。そのさい、マルコ福音書をおもな資料とすることになります。マルコ福音書はペトロが書いたものではありませんが、ペトロが体験したところを語り、それを教団が保存し伝えた伝承がまとめられてこの福音書となったという事情から、ペトロの宣べ伝えたキリストをもっともよく伝えていると見てよいでしょう。

福音書のイエス

ペトロのキリスト体験

 ペトロはおそらく洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中でイエスに出会い、イエスのガリラヤでの「神の国」の宣教活動開始にともない、イエスの弟子として従ったのでしょう。当時のユダヤ人の間では、とくにガリラヤでは、神が約束された「メシア」が現れるという期待が盛んでした。神から油を注がれたメシアが、神の力によって異教徒の支配を打ち破り、イスラエルにダビデの王国のように栄光に満ちた神の支配を打ち立てると期待されていたのです。ペトロはイエスが語られる権威ある言葉に打たれ、悪霊を追い出し病気を癒されるイエスの力ある働きに圧倒されて、イエスを信じ、「あなたこそメシアです」と告白するに至ります。
 ところが、期待に反して、エルサレムに上ったイエスは捕らえられ、裁判にかけられ、ローマの総督に引き渡されて、十字架で処刑されてしまいます。そのさい、イエスの仲間と見られることを恐れて、ペトロは三度までイエスを知らないと否認します。ペトロはガリラヤへ逃げ帰り、漁師の生活に戻ります。このガリラヤでペトロは復活されたイエスにお会いすることになるのです。そのことは、イエスご自身のお言葉(マルコ一四・二八)と空の墓での天使の言葉(マルコ一六・七)で予告されていたのでした。
 ペトロが復活されたイエスに出会ったという体験がどのようなものであったのか、それを直接に語る記事はありません。しかし、マルコ福音書にはその体験から出たと考えられる記事が組み込まれています。
 まず、イエスのガリラヤ宣教の最初に、ペトロら四人の漁師を弟子として召される記事がありますが(マルコ一・一六〜二〇)、これはペトロたちがガリラヤ湖畔で復活されたイエスに出会い、宣教に召された体験から出た記事ではないかと考えられます。この出来事はヨハネ福音書二一章やルカ福音書五章にさらに詳しい形で伝えられています。それによると、湖畔に現れた方の指示に従って網を降ろしたところ多くの魚が取れたこと、それによってイエスであることが分かったこと、その方の前にペトロがひれ伏したこと、「わたしに従ってきなさい。人をとる漁師にしよう」という宣教への召命を受けたこと、ペトロたちはすべてをすてて従ったことなど、これは復活者の顕現物語として理解されます。そうすれば、ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言ったのも、直前に三度までイエスを否認したことを指すと見ることができます。マルコはこの出来事の核心部だけを語っているのです。
 また、夜のガリラヤ湖でイエスが水の上を歩いてペトロたちの舟に近づいてこられたという記事(六・四五〜五二)も、復活されたイエスの顕現の記事ではないかと考えられます。水の上を歩いて近づいてこられたイエスを見て、弟子たちは幽霊だとおびえます。それに対してイエスは「わたしである」と言われます。ここはギリシャ語では「エゴー・エイミ(わたしはある)」となっており、神がご自身を名のられる時に用いられる言葉なのです。神は復活されたイエスの中にご自身を現しておられるのです。モーセは燃える柴の中に現れる神から「わたしはある」という名を聴きます(出エジプト記三・一四)。ペトロたちは復活されたイエスからこの名を聴くのです。
 さらに、イエスが五つのパンと二匹の魚を五千人に食べさせた記事(マルコ六・三〇〜四四)も、ペトロたちが復活されたイエスと食事をしたという体験(使徒言行録一〇・四一)が反映しているようです。山の中で祈っておられるイエスの姿が白く輝く姿に変わったという記事(マルコ九・二〜八)も、ペトロが復活のイエスに出会った体験の一つの表現であると見ることができます。
 このように、ペトロがガリラヤで復活されたイエスにお会いした体験を語ったものが、マルコ福音書ではみな地上のイエスの働きの時期の出来事として取り入れられて、一連の物語に構成されたのです。

キリストとしてのイエス

 ガリラヤで復活されたイエスにお会したペトロたちは、再びエルサレムに戻ります。おそらく、復活されたイエスが世界を支配するため栄光をもって来臨されるのはエルサレムであると、彼らは旧約預言に導かれて信じていたからでしょう。そして、五旬節の祭に世界の各地からエルサレム神殿に来ていたユダヤ人たちに、イエスが復活され、メシアとして立てられたことを大胆に宣べ伝え始めます。
 この時期のペトロの宣教は使徒行伝の二〜五章にまとめられています。要約すると、「あなたがたが十字架につけて殺したナザレのイエスを、神は三日目に復活させてメシアとしてお立てになった」ということです。ペトロの宣教によって多くのユダヤ人がイエスを信じるようになり、エルサレムにかなりの数の信徒の群れが形成されます。これがエルサレム原始教団です。ルカの伝えるところによれば、この福音はペトロを初めとする使徒たちによってエルサレムから始まって近辺の地域に伝えられていきます。
 ペトロが宣べ伝えた福音の内容は、使徒行伝十章(三四〜四三節)のコルネリオたちに対する説教にもっとも簡潔に要約されています。マルコ福音書はこれを拡大したものだとも言われています。ペトロは、ヨハネのバプテスマから始めて、イエスが悪霊を追い出し病人を癒されたことを語り、十字架の死と三日目の復活を語ります。ペトロは復活されたイエスと食事を共にしたと証言しています。こうして、イエスを復活した方として宣べ伝えるにさいして、自分が直接見たり聴いたりした地上のイエスの働きを語り、その方が復活して今も働かれるのだという点に、ペトロの語る福音のもっとも重要な意義があるのです。
 ペトロは短い期間ではありましたが、自分の目でイエスの力ある業を見、自分の耳でイエスの教えの言葉を聴きました。このイエスが復活して、いま自分たちと一緒に働いてくださっているのだ、この方が神が遣わされたキリストだ、というのがペトロの福音なのです。言い換えれば、ペトロは復活者キリストを宣べ伝えるのに、自分が体験した地上のイエスの姿を語ることによって、キリストとはこのような方であると宣べ伝えたのです。ペトロが語るナザレのイエスの姿こそ、復活者キリストの多様な相の中でもっとも基本になるものです。この相のキリスト、すなわち、イエスの姿をもって宣べ伝えられる復活者キリストを、ここで「イエス・キリスト」と呼んでいるのです。
 これは、地上のイエスに直接接したペトロたちでなければ語ることのできないキリストです。ペトロたちが語り伝えた地上のイエスの力ある働きや教えの言葉は、信じる者の群れの中で語り伝えられていきます。これが「イエス伝承」と呼ばれる伝承です。このイエス伝承を用いて復活者キリストの福音を世に語りかける宣教活動が、文書としてまとめられて福音書になるわけです。ですから、福音書はまさに「イエス・キリストの福音」なのです。
 このように福音書には、地上のイエスの働きを語りながら、それによって復活者キリストを世に示すという二重の性格があります。ですから、たとえば病人を癒されるイエスの記事は、いま復活者キリストが信じる者を癒されることを宣べ伝える記事でもあるわけです。悪霊を追い出されるイエスを描く記事は、遣わした使者の手によって悪霊を追い出す働きをされる復活者キリストを語る記事であるわけです。そして、取税人を弟子として受け入れ、遊女たちと食卓を共にされるイエスの姿を伝える記事は、現在信じる者を無条件に受け入れてくださる復活者キリストの愛を語り、それによってイエスを復活させてキリストとした神の絶対の恩恵を啓示する記事となります。
 そうでなければ、福音書のイエスの物語は現在の自分と何の関わりもない、たんなる昔物語になってしまいます。たしかに、イエス伝承はイエスの実際の働きとお言葉を素材としていますから、そこには歴史的な事実の核があります。とくにイエスの言葉は、敬虔な信仰者たちによってかなり忠実に語り伝えられていると見てよいでしょう。しかし、福音書はイエス伝承を用いてイエスの歴史とか伝記を書いているのではありません。あくまで現在自分たちが宣べ伝えている復活者キリストを描いているのです。ですから、福音書を史料にしてイエスの歴史的実像を確立すること、いわゆる「史的イエス」を回復することはきわめて困難です。しかし、わたしたちの信仰は「史的イエス」に土台を置いているのではなく、復活者キリストとして宣べ伝えられているイエスに基づき導かれているのですから、「史的イエス」が確定しないことは信仰の妨げにはなりません。
 このように、福音書は復活者キリストとしてのイエスを語る文書ですから、読む者も聖霊によっって復活者キリストとの交わりの中にいなければ、理解することはできません。福音書は復活者キリストという場において成立し、理解され、その意義を全うすることができる書なのです。

「ダビデの子」キリスト

ユダヤ人のメシア

 このように復活によってメシアとして立てられたイエスをユダヤ人たちに宣べ伝えるにさいして、ペトロたちはイエスが「ダビデの子」であること、すなわちダビデの子孫であることを強調しなければなりませんでした。というのは、当時のユダヤ人たちの信仰では、イスラエルの救済者メシアはダビデの子孫から出ると信じられていたからです。
 イエスがダビデの子孫であることを強調する傾向は、マルコではそう強くありませんが、その後パレスチナまたはシリア近辺のユダヤ人を対象としたと見られるマタイ福音書には強く出てきます。マタイ福音書冒頭の「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」も、実はイエスがダビデの家系の出身であることを証明しようとしているのです。異邦人のために書かれたとされるルカ福音書においても、誕生物語においてイエスがダビデの家系であることが強調されています。

福音における「ダビデの子」

 このようにキリストがダビデの子であるとの相は、ユダヤ人に対する宣教において、とくにパレスチナにおける宣教活動において強調されて、キリスト宣教の重要な項目になるわけです。この点は、福音がパレスチナの外にまで宣べ伝えられ、ユダヤ人の枠を超えるようになっても、受け継がれ保持されます。たとえば、異邦人への使徒パウロが御子に関する福音を要約するときもこう言っています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ一・三〜四)。さらにずっと後期のパウロ系の教団で、「(イエス・キリストは)ダビデの子孫で、死者の中から復活された」という信条が広く受け入れられていたことが伝えられています(テモテU二・八)。これはイエス・キリストの福音をもっとも簡潔に要約した形です。
 しかし、キリストがダビデの子であるという相の内容は、福音においてはユダヤ人の場合とは決定的に変わってきています。ユダヤ人の中ではダビデの子として現れるメシアは、イスラエルの民を異教徒の支配から解放して、ダビデの王国のように輝かしいイスラエルを回復する政治的な解放者でした。イエスと使徒たちの時代は、このようなメシアであることを自称する人物が多く現れ、イスラエルをローマに対する全面戦争に巻き込み、ついにエルサレムと神殿が壊滅するという悲劇にいたるのです。当時のユダヤ人のこのようなメシア期待を避けるために、イエスご自身は「ダビデの子」という称号を用いられませんでした。
 それに対して、福音が告げ知らせるイエス・キリストは、たしかにダビデの子孫ではありますが、そのような政治的メシアではなく、その十字架の死と復活によって人間を罪の支配から解放し、復活の命にあずからせるという終末的な救済者なのです。この違いはすでにイエスがファリサイ派の学者たちと論じて明らかにしておられるとされています(マルコ一二・三五〜三七)。詩編一一〇編を引用して、ダビデ自身がメシアを「わたしの主」と言っているのであるから、メシアはファリサイ派が主張するような「ダビデの子」ではなく、それ以上の方ではないか、という議論です。これは、イエスは復活によってメシアとされたとする教団が、イエスの復活を認めないファリサイ派ユダヤ教に対して、メシア観の変革を求めている議論であると思われます。
 では、福音においてキリストがダビデの子であることが強調されるのは、どういう意味においてでしょう。それは、福音が宣べ伝えるイエス・キリストはイスラエルの歴史の中で与えられた約束を成就する方であることを強調するためです。「肉によれば」、すなわち人間としてのイエスは、イスラエルの民の中に生きた方、イスラエルの宗教と歴史の枠の中で生き、その中で与えられてきた神の約束を成就する方であるという意味です。イエスがダビデの子であるという宣言によって、イエス・キリストの出来事はイスラエルの歴史と切り離すことができない形で結びつけられるのです。キリストはイスラエルの完成者です。

「人の子」キリスト

栄光の「人の子」

 最後にペトロが宣べ伝えたキリスト、とくにパレスチナにおけるキリスト宣教でもっとも特色のあるキリストの相は、「人の子」としてのキリストです。
 「人の子」というのは、「神の子」に対してイエスの人間としての面を指す用語ではありません。これはユダヤ教黙示思想で用いられる独特の用語で、最初にダニエル書に出てきます。ダニエル書七章で、次々と世界を支配する四つの帝国が、海から上がってくる四頭の恐ろしい獣の姿で描写されます。最後に獣は滅ぼされ、支配権は天の雲に乗って神の前に現れる「人の子」のような者に与えられ、その支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがないとされます。ダニエル書のあと新約聖書の時代に至るまで、ユダヤ教には多くの黙示文書が生み出されますが、その中で「人の子」とか「人」という称号は、終りの時に神に反抗する世界権力が滅ぼされ、神の審判と支配が確立されるとき、神の最終的な裁きと支配を執行する超自然の人格を指す称号です。
 イエスはご自身を指すのに、「ダビデの子」という称号は用いず、「人の子」という語をよく用いられました。その中で最も重要な場面は、最高法院における裁判の席で、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の問いに対して、イエスが答えられた言葉です。イエスはその問いに対して、あの神の自己宣言の句である「エゴー・エイミ」と断言されたあと、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えておられます(マルコ一四・六二)。また、イエスがエルサレム神殿の崩壊を予言されたとき、弟子たちが世の終りについて尋ねます。その時イエスは、世界に大きな苦難が臨むが、その後「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」と語っておられます(マルコ一三章)。
 このように、マルコ福音書では、キリストは「人の子」としての相、すなわち終りの時に世界に対する神の裁きと支配を執行するために、神の栄光を帯びて来臨する方として宣べ伝えられているわけです。イエスご自身が「人の子」という称号をどのような意味で用いられたのかについては、議論が続いております。しかし、すくなくともパレスチナの教団はこの「人の子」称号を黙示思想における終末的な審判者を指す称号として用いたことは明かです。パレスチナのユダヤ人信徒たちは、七十年のエルサレム神殿崩壊の前後の時期の大きな苦難の歴史的状況において、キリストを「人の子」として、すなわち神の支配の確立のために栄光をもって来臨する方と信じ、宣べ伝えたのです。
 ところで、「人の子」という称号は、ユダヤ教黙示思想に馴染んでいるパレスチナのユダヤ人には分かりやすい用語でしたが、福音がパレスチナの枠を超えて広くヘレニズム世界に宣べ伝えられるようになると、ギリシャ語を話す異邦人には理解されなくなります。それで、パレスチナの外のヘレニズム世界の教団はこの称号を用いなくなります。パウロもキリストの福音を語るのに「人の子」という称号は用いていません(それでも、この用語はイエスが用いられたものとして固く伝承に根づいていましたので、イエス伝承にはそのまま用いられていきます)。しかし、パレスチナの教団が「人の子」という称号で示したキリストの相、世界の裁きと支配のために栄光をもって来臨されるキリストの相は、ヘレニズム世界の教団においても、「人の子」という称号抜きで受け継がれていきます。それがキリストの来臨(パルーシア)の信仰です。この事情は現在まで続いています。わたしたちはこの相のキリストを、再臨のキリストと呼んでいます。現在の教会がキリストの「パルーシア」(来臨、再臨)を信じているのは、福音書の「人の子」信仰を継承していることを意味しています。

苦しみを受ける「人の子」

 ところで、マルコ福音書が宣べ伝える「人の子」としてのキリストにおいて、将来の栄光の相だけでなく、その「人の子」が地上で苦しみを受けるという相がさらに重要な意味をもっています。マルコ福音書はイエスの十字架刑にいたる受難を詳しく語っていますが、それを「人の子」の受難としている点が重要です。そのことは、エルサレムへ上る途上でイエスご自身が三回も繰り返して語られます。この「人の子は必ず多くの苦しみを受け、………殺され、三日目に復活する」(マルコ八・三一)ことこそ、マルコ福音書の核心であり、ペトロが宣べ伝えたキリストの中心です。これが「ホ・ロゴス」(御言、福音そのもの)なのです(八・三二)。
 イエスは復活して神の右に上げられ、「人の子」としての栄光に入られるのですが、その「人の子」が地上では十字架につけられて殺されなければならないのです。それが神の御旨なのです。そのような方の死ですから、イエスが最後の晩餐の席で語られたように、その血は「多くの人のために流される血、契約の血」となるのです。イエスを信じて結ばれる者は誰でも、その血によって罪をあがなわれ、神との命の交わりに入ることが許されるのです。
 これは秘義です。この秘義は、自分の十字架を負ってイエスに従う者に、聖霊によって啓示されます。イエスはこの秘義を語られた後すぐに続けて、弟子と群衆に向かって自分の十字架を負って従ってくるように求めておられます(マルコ八・三四以下)。わたしたちも一人一人イエスに従うことによって、この「人の子」の秘義に参入しなければなりません。福音はこの秘義にあずかるように、すなわち、十字架されたイエスに合わせられて自己が死ぬことによって、復活者キリストと共に復活の命に生きるように、すべての人を招いているのです。