市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第1講

序章 キリスト信仰の原点

わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、
それも十字架につけられたキリスト以外、
何も知るまいと心に決めていた。

(コリントの信徒への手紙T 二章二節)

十字架につけられたキリスト

原点に立ち帰る

 人生は複雑です。様々な種類の問題が起こって、信仰者としてどう対応してよいか分からなくなるときがあります。それだけでなく、信仰そのものについても、一見矛盾するような面があることに直面して戸惑うことがあります。わたしたちの信仰の拠り所である聖書にしても、最近は学問的な分析が進んで、実に複雑な様相を見せております。わたしたちは信仰と人生の複雑な問題に直面して動揺したり、個々の問題の対応に追われて疲れ果てたりして、信仰に生きる力と歓びを見失ってしまうことがあります。そのような時には原点に立ち帰ることが重要です。わたしたちの信仰生活がそこから出発した原点に立ち戻って、そこに改めてすべてを委ね、そこからすべてを見直すことが解決の道、力を取り戻す道です。わたしは最近このことを自戒として痛感していますので、今回はわたしたちの信仰の原点についてお話しようと思います。
 わたしたちの信仰の原点はどこにあるのでしょうか。そのことを使徒パウロから学びましょう。パウロは諸教会にあてた手紙の中で、問題が起こるたびに自分が宣べ伝えた福音に立ち帰るように訴えていますが、その一つが冒頭に掲げた一句です。パウロがコリントで福音を宣べ伝えた時、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」、優れた言葉や知恵を用いず、ひたすらこの「十字架につけられたキリスト」だけを宣べ伝えたのです。パウロにとって「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」こそ、福音の核心であり、全部なのです。ここからわたしたちの信仰と生活のすべてが発するのです。コリントの教会は教義の面でも倫理の面でも問題の多い教会でしたが、その様々な問題に直面してパウロはまず何よりもこの「十字架につけられたキリスト」を思い起こさせて、ここから問題を解決しようとするのです。わたしたちの信仰は「主イエス・キリスト」の信仰ですが、そのキリストは「十字架につけられたキリスト」であるという点に福音の核心があるのです。

「キリスト」の十字架

 ところで、パウロが「十字架につけられたキリスト」と言うとき、この「キリスト」は個人名ではありません。福音は「キリスト」という名の歴史上の一人物が十字架につけられて処刑されたということを宣べ伝えているのではないのです。その人物がどれほど立派な人物で、その十字架刑がいかに理不尽なものであっても、その出来事が人を救うのでありません。人々のために尽くした立派な人物で理不尽に処刑された人は多くいます。イエスもそのような人物の中の一人です。ただ、イエスの場合は神から「油を注がれて」イスラエルに遣わされたメシア(ギリシャ語ではキリスト)であり、復活によって万民の主(キュリオス)として神の右に上げられた方の十字架であるという点が、他の場合と根本的に違うわけです。「キリスト」とは、復活によって万民の救済者、新しい人類の頭となられた方の称号です。その復活者キリストが十字架につけられた方として宣べ伝えられているのです。
 たしかに、イエスの十字架刑は福音書の受難物語が描くように歴史上の一事件です。しかし、福音はそのイエスを復活者キリストとして宣べ伝えることによって、キリストが十字架によってキリストである、すなわち復活者はその十字架によって救済者であると宣言しているのです。「十字架につけられたキリスト」とは、イエスの十字架刑という歴史上の出来事ではなく(それと重なってはいますが)、復活して現在生きて働いておられるキリストが十字架の死を救済者の本質として含んでおられるという霊的現実を指しているのです。パウロが「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ三・一)と言うとき、このような意味での「十字架につけられたキリスト」が語られているのです。「十字架につけられた姿で現れる復活者キリスト」と表現してもよいかもしれません。

十字架の言葉

 この「十字架につけられたキリスト」は、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」です(コリントT一・二三)。救済者メシア到来の約束を受けていたユダヤ人にとって、メシアとは神の民の敵をその栄光の力で滅ぼす人物であって、敵によって処刑されるような者はメシアではありえません。「十字架につけられたキリスト(メシア)」というのは、ユダヤ人には全く考えられないことです。また、神からの救済者の約束を受けていない異邦人は、人間の知識と経験の範囲内で救済とか幸福を追求します。そのような異邦人の代表として、知恵を追い求めるギリシャ人があげられています。ところが、人間が理解できる知恵の中に、復活とか十字架は占める場所がありません。それは知恵とは反対のまったく愚かな話です。宗教に地上の利益だけを追い求める日本人には、このようなことがなぜ問題になるのかさえ理解できません。しかし、この「十字架につけられたキリスト」こそ人を救う神の力であり、人を命に導く神の知恵なのです。
 「十字架につけられたキリスト」はたんに歴史上の出来事ではなく、現在の霊的現実であると言いました。それは、これを宣べ伝える福音が客観的な出来事の報告ではなく、いま聴く者に語りかける神の言葉であると言おうとしているのです。いま語りかける言葉とは、「わたしとあなた」の関わりの中で語られるのですから、「十字架につけられたキリスト」とは、復活者キリストが聴く者に向かって、「わたしはあなたのために死んだ」と語っておられる言葉そのものです。パウロはこれを「十字架の言葉」と表現しています(コリントT一・一八)。わたしも若い時にこの「十字架の言葉」を聞いたのです。聖霊の著しい働きの場で、輝く十字の形をした光の中から、「わたしはあなたのために死んだ」という言葉、日本語でも英語でもない、言葉そのもの、意味そのものが迫ってきたのです。それがわたしの原体験です。わたしの信仰の生涯はここから発し、このことの証のためにあります。人がこの言葉を全存在をもって聴くとき、古い人は死に、キリストに生きる新しい人が生まれるのです。

わたしたちの罪のために

複数形の罪と単数形の罪

 では、なぜキリストがわたしのために死ななければならなかったのでしょうか。この問いに対して福音は明確に答えています。「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」のです(コリントT一五・三)。この言葉は共同体が福音を告白する定式の中の文ですから「わたしたち」となっていますが、「わたしとあなた」の一対一の関係で聴く「十字架の言葉」においては、「わたし」の罪のために、となります。キリストは「わたしの罪のために」死なれたのです。「わたしの罪」は、神の子キリストがそのために死ななければ解決できない深刻な問題なのです。では、「罪」とは何でしょうか。そのことをまず、罪について語っている新約聖書の言葉遣いを手がかりにして調べてみましょう。
 普通「罪」といえば、わたしたちはまず何らかの規範に対する違反行為を考えます。まず、しなければならないこと、または、してはならないことについてのきまりとか定めがあって、その定めに違反する行為(内面的な違反も含めて)が罪とされます。それが国の定めである法律であれば、その違反は犯罪となり、処罰されます。社会の定めである道徳であれば、その違反行為は社会的非難を浴びて、信用を失います。それが宗教の定めであれば、神とか教団の裁きを招きます。人間には多くの定めが課せられているので、その違反行為もさまざまな種類があることになり、違反行為を指す用語も罪とか罪科、不法とか汚れ、非行とか犯罪などと多様になります。そして、違反行為も多くあるわけですから、複数形で用いられるのが普通です。新約時代のユダヤ教では、聖書に書かれている律法と律法学者が定める規定が、すべて神の定めであり社会の道徳と法律であったわけで、その違反が罪と呼ばれたのです。ですから、ユダヤ教で一般的に罪が問題にされるときは、複数形で語られるのが普通でした。
 ところが、新約聖書では、とくに使徒パウロにおいては、罪は単数形で語られることが多くなります。新約聖書は旧約聖書の考え方や用語を引き継いでいますから、罪が複数形で語られているところも当然多くあります。先にあげた「わたしたちの罪のために」という句の「罪」も複数形です。これは、パウロがユダヤ人キリスト教団で形成された福音の定式(ケリュグマ)を引用しているからです。しかし、パウロが自分の用語で罪の問題を語るところ、たとえばローマ書の五章後半から七章までのような箇所では、圧倒的に単数形が多くなります。そこではパウロはキリストの死も単数形の罪との関連で語っています。さらに、罪という語の用法について興味深い事実が観察されます。罪が複数形で用いられている文では、人が主語で罪は目的語であることが普通です。人が罪を犯したり、犯さなかったりするのです。

人を支配する力としての罪

 ところが、罪が単数形で用いられている文では、罪が主語で人は目的語になっています。罪が人を支配したり、人に報酬を与えたりするのです。このような用法から、パウロはもはや罪をたんに規範に対するもろもろの違反行為とは見ていなかったことが分かります。パウロにとって罪とは人間を支配する一つの力なのです。人間を神から引き離し、死に至らせる支配力なのです。また、そのような力に支配されている人間の全体的なあり方なのです。パウロはこのような罪の本質を身をもって体験し、把握した人物です。この罪の理解が、ここに見たような表現になって現れてくるのです。この罪の本質をパウロは、霊的理解力の弱いわたしたちのために、奴隷のたとえを用いて説明しています(ローマ六・一六〜二三)。人間は生まれながらのままでは「罪の奴隷」なのです。罪の力に支配されていて、神に背くあり方しかできないので、死にいたらざるをえない存在なのです。罪という主人が、生涯仕えた奴隷に支払う報酬は死である、というのです。
 さらに、この罪という支配力はわたしたち人間の外にあるのではなく、わたしたちの中に、わたしたちの五体の内にあるので、問題が厄介で深刻なものになるのです。人間存在そのものに深く組み込まれているので、人は自分でそれを自分から引き離すことができません。このような罪は、外からわたしたちに課せられている定め(もろもろの規範)を意識する前から自分の内にあるのです。ただ、外から規則が課せられなければ、違反もないわけですから、そのような支配力が罪として自覚されないだけです。罪の力に支配されているあり方を、人間の自然のあり方として、無自覚に罪と一つになって生きているのです。ところが、ひとたび人間が神の定め(律法)を意識するようになると、自分のあり方が神の律法に違反するようなあり方しかできないことに気づくようになります。すなわち、自分を支配している内在の力が自分を神から引き離す力、神に背かせる力であること、すなわち罪であることが分かるようになるのです。神の律法は人間を支配している力の正体を暴露するのです。神の聖なる律法は鋭い剣のように、それまで無邪気に一体であった罪とわたし自身を切り離し、罪を罪として暴露すると同時に、罪とは別のわたし自身を自覚させるのです。こうして自覚させられた「わたし」は、神の律法を喜んで認める「内なる人」ですが、その「わたし」は自己を自覚すると同時に、自分が罪という支配力のとりこになっていることを知るのです。その結果、「わたし」は自分を支配し奴隷にしている罪の力からの解放を切に願い求めないではおれないのです(ローマ書七章)。

罪の支配力からの解放

 キリストが死なれたのは、実に人をこのような罪の支配力から解放するためなのです。わたしたちは、このキリストに合わせられることによって罪の支配力から解放されて、もはや死に支配されることのない新しい命に生きることができるようになるのです。この間の消息はローマ書六章三〜一一節で、バプテスマを象徴として用いて詳しく語られています。バプテスマとはキリストの死にあずかることです(三節)。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(四節)。罪の支配力は私たちの五体の中に深く組み込まれていますから、その力から解放されるためには、わたしたちが死ぬほかはないのです。「死んだ者は罪から解放される」のです(この段落の「罪」はすべて単数形)。
 ところが、わたしたちは自分で死ぬことはできません。キリストに合わせられることによって、わたしたちは初めて罪に死ぬことができるのです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」です(六節)。こうして初めて、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言えるようになるのです(八節)。「キリストと共に生きる」生は、もはや死が支配することのない復活の生命です(九節)。やがてキリストの復活の姿にあずかることになる生命です(五節)。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」(一〇節)。このキリストに合わせられて、わたしたちも「罪に死に、神に生きる」ようになるのです(一一節)。(一一節の「エン・クリストー」は「神に生きる」だけではなく、「罪に死に、神に生きる」という句全体にかかると理解すべきです)。キリストが十字架上に死に三日目に復活されたのは、わたしたちがそのキリストに合わせられることにより、罪に死んでその支配から解放されるためなのです。すなわち、わたしたちがキリストに合わせられることによって初めて、キリストの十字架・復活の出来事がわたしたちの救いとなるのです。

聖書に書いてあるとおり

血によるあがない

 ところで、このようなキリストの死に合わせられて救われるという理解は、パウロの独創的な個人的思想ではありません。それは「聖書に書いてあるとおり」に起こったことなのです。たしかに、パウロは聖霊によって、キリストの十字架・復活の事態を身をもって体験し、それを誰よりも的確な言葉で表現しました。わたしたちは自分の聖霊によるキリスト体験とその意義を、パウロの言葉に導かれて正しく自覚することができるのです。その意味でパウロの手紙はわたしたちの信仰の拠り所です。しかし、キリストの死による人間の救済という事柄自体は、すでに聖書(旧約聖書)に書かれているのです。
 聖書はこの事柄自体を「あがない」という言葉で指しています。そして、この「あがない」を語るにさいして、二つの違った出来事を語り、それに対応して全く別の用語を用いています。一つは、イスラエルの民がエジプトから解放された出来事を「あがない」として語るものです。ここでは、もともと身内の者の財産を「買い戻す」とか、奴隷の身分の者を「請け出す」という意味の語が、イスラエルの民を捕われの状態から解放するという意味で用いられています。ここでは、「人をあがなう」ということになります。もう一つは祭儀制度において、犠牲の動物の血によって民の罪の汚れが拭われて、神との交わりが回復されることを語るところで、この罪の汚れの除去が「あがない」と呼ばれています(レビ記、とくに一六章)。ここでは、もともと「拭い取る」とか「覆う」という意味の語が、神との交わりを回復するために、民の汚れを拭いさり罪の責任を覆う祭儀行為を指すのに用いられています。ここでは、「罪をあがなう」ことになります。ところで、エジプトからの解放という意味の「あがない」においても、犠牲の子羊の血が必要でした。このことは、民の出エジプトを記念して年毎に祝われる「過越の祭」のさいに、子羊が捧げられることでしっかりと覚えられています。ですから、どちらの場合も、犠牲にされるものの血、すなわちその死によって「あがない」が成し遂げられることを示していることになります。

キリストにあるあがない

 福音はイエス・キリストの十字架と復活の出来事を聖書の成就として宣べ伝えます。旧約聖書が予言し約束していたこと、歴史的な出来事や祭儀制度を型として指し示していたことが、いまやキリストの十字架の死と復活によって最終的に実現したのだと宣言します。キリストの十字架は、聖書が語っていた「あがない」の成就だというのです。聖書が語っていた二つの型の「あがない」が、この一つの出来事によって同時に成就したというのです。ヘブル書は、旧約の祭儀制度において動物の血を用いて行われていた罪のあがないは影であって、キリストが十字架の上で流された血によってあがないの本体が成就したのであることを詳しく論じています。しかし、パウロはローマ書において、キリストの十字架を祭儀制度の罪のあがないとして語っているところ(三・二五)もありますが、先に見たように、おもに罪の支配力からの解放として語っています。祭儀制度上のあがないにも予型としての重要な意味はありますが、第二イザヤが予言しパウロが告白したように、わたしたちの霊的現実の描写としては支配力からの解放という面がより根源的です。キリストの出来事は、昔イスラエルがエジプトの支配から解放されたことの終末的な成就なのです。
 すでに、イエスが過越の祭の時に十字架につけられたことが、イエスの死の意味を指し示しています。イエスは過越の子羊として死なれたのです。福音書は、イエス自身が自分の死を「多くの人のため」のものであると語られたことを伝えております(マルコ一〇・四五、一四・二四など)。このイエスの言葉の背後には、旧約預言の最高の到達点であるイザヤ書五三章の「主の僕」の預言があります。そこでは、「ヤハウェの僕」が「多くの人の罪を自ら負った」ことで民が救われるとされています。イエスが語られた「多くの人のために」とか、福音が語る「わたしたちの罪のために」という時の、「のために」という前置詞が正確には何を意味するのかが議論されていますが、このような聖書全体の背景から見るとき、「代わって引き受けて」という意味があることは否定できません。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリントU五・二一)。

キリストと共に神に生きる

「エン・クリストー」の現実

 ところが、もしわたしたちがこのキリストの外にいて、キリストがわたしの罪を身代りとして引き受けてくださったのだから、わたしにはもう罪の責任もないし、その結果からも免れていると考えるならば、それは大きな思い違いです。先に見たように、わたしたちがキリストに合わせられることによって初めて、キリストの死がわたしの死となり、わたしは罪の支配から解放されるのです。キリストに合わせられて自分が死ぬのでなければ、罪の支配から解放されて復活の生命に生きることはできません。信仰とは、キリストがわたしの罪を身代りに引き受けてくださったと外から客観的に認めることではなく、「十字架の言葉」をひれ伏して聴き、わたしのために死なれたキリストに自分の全存在を投げ込んで、キリストに合わせられる者になることです(バプテスマはこのことの告白行為です)。そのようなあり方には必ず神の御霊が注がれて、霊なる復活者キリストとの交わりにあることが実感されるようになります。このように、キリストに合わせられているあり方を、パウロは「エン・クリストー」と言っているのです。これは、直訳すれば「キリストにあって」となりますが、新共同訳では「キリストに結ばれて」となっています。この「エン・クリストー」の場において初めて、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」と受け取ることができ(コリントU五・一四)、自分も死んで、「命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からわたしを解放した」と告白できるのです(ローマ八・二)。

神に生きる

 キリストに合わせられ、キリストと共に死んだ者は、キリストと共に生きます。キリストに合わせられて自分が死んだ時、死者の中から復活されたキリストの生命に生きることが始まります。もはや死が支配することのない生命に生きることになります。これが「永遠の生命」です。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ六・二三)。「永遠の」というのは、この生命がいつまでも続くと言う時間の長さではなく、死に支配されず、復活に至らざるをえない生命の質のことです。たしかに、わたしは死ぬべき体の中に生きております。しかし、この体の中で生きている「わたし」は、キリストと共に生きているのです。死者の中から復活されたキリストと一緒に生きているのです。この体は朽ち果てるように定められています。しかし、「わたし」はキリストが死者の中から復活されたように、必ず朽ちることのない「霊の体」を着て復活することを知っています(ローマ六・五、コリントT一五・五三)。この「必ず」は内にいます御霊が確信させてくださるのです。キリストに合わせられて自分が死んだところに働く神の御霊が、将来の復活を現在の生きる力にしてくださるのです。これがキリストに結ばれて生きる者の希望です。ローマ書八章は、このように「キリストにあって神に生きる」者の姿です。その全体が、聖霊によって導き入れられる現実です。ローマ書八章の豊かな生命の世界は、すべて聖霊の働きの展開であり、それは「十字架につけられたキリスト」の場に成立する世界なのです。
 このように、「十字架につけられたキリスト」こそ福音の核心であり、このキリストに合わせられることがわたしたちの信仰の原点です。人生の問題であれ、信仰上の問題であれ、そして神学上の問題であれ、行き詰まったら、この原点に帰ってくることが解決です。わたしたちには、ここしか帰るところはありません。ここが力の源泉です。希望の拠り所です。