市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第100講

100 深き淵より

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

(詩編 一三〇編一節)


 これがわたしの魂の叫びである。この叫びで始まる詩編一三〇編は、わたしの祈りである。わたしは自分を支えるものが何もないところから叫ぶ。わたしの祈りが神に受け入れられる根拠は何もない。わたしは汚れ果てた者、聖なる神の前に立ちうる資格はない。わたしを支える足場はない。自分の中に何も支えがない「深い淵」から、わたしの魂は主キリストに現された神の恩恵だけに縋り、赤子が母親の乳房を求めて泣くように、ひたすら主イエス・キリストの名を呼び求める。
 神の前に、わたしはこれだけのことをしましたという清さと資格を主張できるものは何もない。では、知恵と悟りはあるのか。神と宇宙の壮大で深遠な神秘の前には、わたしの蚊の涙ほどの知識と知恵は何の意味があろうか。外の世界がいっさい沈黙し、自分の内面に沈潜するとき、わたしの存在は底なき深淵に投げ出されていることを感じる。
 でも、信仰が最後の支えではないのか。何がなくても信仰があれば、人は信仰によって救われるのではないのか。たしかにそうである。しかし、わたしにはその信仰すらない。これがわたしの信仰です、と神の前に差し出すことができる主に対する確信、忠誠、誠実などはない。わたしは常に迷い、動揺し、尻込みする弱い者である。そのような自分の在り方としての信仰は放棄して、神が信実であるという、神の側の事実にこの自分を委ねる。自分がどのように動揺し尻込みしようと、神がこうだと語られた言葉はそのまま事実なのであるから、あるいは事実となるのだから、わたしはその言葉に全存在を委ねることができる。わたしは自分の信仰ではなく、神の信実に身を委ねる。これが「主を呼ぶ」という姿である。
 復活して神の子とされた主イエス・キリストは、その十字架によってわたしに語ってくださった、「わたしはあなたのために死んだ」と。この十字架の言葉がわたしを捕まえ、わたしを深き淵から引き上げる。わたしが何もないゼロの存在であっても、神は愛のゆえにわたしを受け入れ、子としてくださっている。この無条件絶対の恩恵こそ、わたしが存在することができる唯一の場である。十字架の主キリストに現された神の恩恵を受けて、私の魂はイスラエルの詩人と共にうたう、「慈しみは主のもとに、豊かな贖いは主のもとにこそある」と。

                              (二〇〇二年一号)