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96 見えないものに目を注ぐ

 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(コリントの信徒への手紙U 四章一八節)


 「見えるもの」とは、この世のすべての現象、またわたしたちがこの世で体験するすべての出来事です。それに対して「見えないもの」とは、永遠界に属する事柄であり、来るべき世の栄光であって、わたしたちが直接五感で感じたり体験することはできません。それに「目を注ぐ」とは、それを究極の関心事として、それに自分を投入して生きることです。「見えるもの」か「見えないもの」か、どちらに目を注ぐかによって、人生はまったく違ってきますし、世界は全然別の様相を示します。
 ところで、ここで「見えないものに目を注ぐ」と言うとき、パウロは漠然と永遠界のことを語っているのではありません。この文の直前で、パウロはイエスの死を負う生涯は、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためであると語り、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださることを、わたしたちは知っています」と言っています(四・一四)。そしてこの文の直後に、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(五・一)と言って、地上の体が死滅した後に、朽ちることのない永遠の霊の体が与えられるという「死者の復活」の希望を語り出します。このように、復活に目をとめて語る流れの中で、「見えないものに目を注ぐ」と言っているのです。パウロが言う「見えないもの」とは復活のことであることは明かです。
 「死者の復活」は「見えないもの」です。「外なる人」の五感や理解力や経験で把握できるものではありません。それは福音という神の言葉によって約束され、信仰によって望む将来です。キリストの十字架と復活の出来事に含まれた将来であり、恩恵として賜る聖霊のいのちによって、「内なる人」が身を乗り出して待ち望み、それに向かって走り続けざるをえない将来です。「内なる人」はこう言わざるをえないのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ三・一〇〜一一 一部私訳)。

                              (二〇〇一年二号)