市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第91講

91 神の信実に委ねて

わたしはあなたの慈しみに生きる者、
 わたしはあなたの信実に歩みます。

(詩編 八六編 二節と一一節から)


 最近は高齢者の問題が広く関心を集めています。自力で生活できなくなった高齢者をどのように介護するかが社会全体の課題となり、国の制度から個人の介護の仕方まで、新聞やテレビで取り上げられない日はありません。しかし、高齢者本人の心の問題はあまり注目されていないようです。
 介護を受けるだけの高齢者は、自信や自尊心を奪われた状況で、病苦や孤独や死の不安と戦わなければなりません。そのとき何を拠り所にして自分の心を支えるのか、それは各自が長い生涯の中で内に築いてきたもの以外にはありません。いつかも書きましたが、「人は生きたように死ぬ」のです(一九九八年五号巻頭言)。
 では、わたしたちキリストにある者はどうでしょうか。新約聖書はとくに高齢者の問題に触れることはほとんどありません。当時、介護を必要とするような高齢は例外で、社会の問題となっていなかったという事情もあるのでしょう。しかし何よりも、福音が提起し解決を与えようとする人間の問題が、年齢に関係のない問題だからでしょう。主の来臨を前にして、老いも若きも同じです。悔い改めと御霊の賜物について、また信仰と愛と希望について、年齢は関係ありません。
 わたしたちは福音の中に、すなわち、わたしのために十字架され復活されたキリストの中に現された神の恩恵だけに身を委ねて生きてきました。わたしたちは、神の信実だけを根拠にして、キリストの出来事を通して語りかけてくださった神の言葉に身を投じて歩んできました。高齢になって死に直面して生きる日々も同じです。
 死の現実の前に、わたしたちの手が築いてきた栄光は崩れ去ります。あらゆる人間の言葉と思想はその光を失います。魂の奥底に響く永遠の神の言葉だけが、わたしたちの心を支えます。もはやわたしの信仰も誠実も問題ではありません。わたしは、その言葉の背後にある神の信実だけに身を委ねて、「死の陰の谷」を歩みます。この地上の生涯においてわたしを支えたのは、不動の岩である神の信実でした。その神の信実が、その時にもわたしを支えてくださるのです。

                              (二〇〇〇年三号)