市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第90講

90 唯一の神

 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。

(ローマの信徒への手紙 三章二九〜三〇節)


 この三月にローマ法王ヨハネ・パウロ二世が聖地を巡礼し、イエスにゆかりのある場所で祈りを捧げミサを行っただけでなく、ユダヤ教とイスラームの聖地も訪れ、その代表者とも親しく会談しました。これは宗教の歴史において画期的な出来事です。たしかに、法王のこの行動で宗教間の複雑な問題が一挙に解決に向かうとは考えられません。しかし、これは世界史の底流に大きな変動が始まっていることを示す一つの徴候です。
 すでに法王は新しい千年期の扉を開くにあたって、教会の悔い改めをもっとも重要な課題と位置づけ、教会の相互破門、異端審問、十字軍、ユダヤ人迫害など教会が犯した過ちをあげて、神の赦しを祈り求めていました。これは、自分だけが真理と救いの担い手だとするカトリック教会の体質が変わり始めたことを示しています。
 通信や交通の手段が急速に発達し、世界の諸民族の交流が激しくなり、相互に依存しないでは生きられない時代が来ています。新しい千年期はその流れを加速するでしょう。そのような時代に、宗教が自己を絶対化し、自分以外の宗教を敵視するようでは、人類は相互殺戮の末に自滅せざるをえません。
 イエスによって無条件の赦しと愛を教えられているキリストの民は、宗教的寛容の精神を世界に根付かせる責任を負っています。ところが、実際の歴史はキリスト教がもっとも非寛容であったことを示してきました。新しい千年期は、キリストの民が痛みを自らに引き受けながら、異なる立場の人々を受け入れることによって、諸宗教・諸民族の融和と共生の方向に流れを変えていく事業の先頭に立たなければなりません。
 神はキリスト教徒の神だけの神ではありません。ユダヤ教徒の神であり、イスラーム教徒の神であり、ヒンヅー教徒の神であり、仏教徒の神でもあります。どの宗教の人も同じ神が愛しておられる子であることを認めるところに、人間の尊厳を互いに認め合う場が成立します。教会は「教会の外のキリスト」を見なければなりません。

                              (二〇〇〇年二号)