市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第88講

88 静かにささやく声

火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

(列王記上 一九章一二節)


 世には大きな声、激しい言葉が溢れている。拡声器を通して響き渡る大きな声は大群衆を興奮させ、独裁者の激しい演説は国民すべてを激流とする。新聞やテレビの声も、その声を受け入れ、それを形成する巨大な民衆の存在によって大きな声となる。
 しかし、真理を求める魂は、自分を圧倒する大きな声には本能的に反発する。そのような大きな声には真理がないことを知っているからである。魂にとっての真理、すなわち神の声は、自分の全身全霊を耳として聴かなければ聞こえてこない細い声である。
 昔、預言者エリヤは山の中で主の前に立つように命じられた。「見よ。そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中には主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」と記されている。その静かにささやく声の中に主はおられ、エリヤはその声に主の言葉を聴き、預言者としての使命を果たしたのであった。
 わたしたちが静かにささやく声に主の言葉を聴くのは、祈りの場である。外からの大きな声が聞こえないように、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる父」に祈るのである。全身を耳にして、父のささやく声を聴くのである。昔修道士たちが荒野に隠れたのも、このような祈りの場を求めたからであった。
 大きな声は外から聞こえてくるだけではない。自分の内部からも聞こえてくる。様々な欲望が大きな声で聞き従うことを求めて叫んでいる。病床のように、地上の欲望が断ち切られる場が、しばしば静かにささやく神の声を聴く場となる。
 わたしを圧倒する大きな声はわたしを感激させ、わたしを捉えることがあるかもしれない。しかし、それは一時的である。わたしが全存在を投げ出して聴き取った細い声こそ、わたしの生涯を貫いて、わたしを支える力となる。

                              (一九九九年六号)