市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第85講

85 救いの冠

わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。

(ローマ書 八章二四節前半 私訳)


 キリストの救いは事実です。福音はわたしたちの人生に現実の変化をもたらす力です。その変化の一つは、わたしたちが希望をもって生きるようになることです。希望はキリストにおける救いの冠です。
 「このような希望」の内容は、直前に語られています。「御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます」。
 わたしたちは、キリストにあって賜っている御霊によって、すでに子とされています。この御霊によって「アッバ、父よ」と呼んでいるのです。しかし、子である現実はわたしたちの朽ちるべき体と弱い人間性の中に覆われているので、御霊という「初穂」をいただいているわたしたちは、内にうめきながら、神の子の現実が完全な栄光の中に現れることを切望しないではおれません。この内なるうめきの中の切望が、「希望」の中身です。
 「子とされること」の完成とは、「体の贖い」のことです。「贖い」というのは本来(身代金を払って)捕虜や奴隷の状況から解放されることですから、「体の贖い」というのは、わたしたちの体が滅びへの隷属から解放されて、朽ちるべき体から朽ちない体に、卑しい体から栄光の体に、弱い体から強い体に、つまり自然の命の体から霊の体に変えられることです。「体の贖い」とは、パウロがコリントの信徒への第一の手紙十五章全体で強調した「死者の復活」を一句に凝縮したものです。
 コリント書簡では、復活されたキリストが「初穂」と呼ばれていました。キリストの復活は、キリストに結ばれて生きる者たちが死者の中から復活することの保証であるからです。しかしローマ書では、わたしたちの内にあって「アッバ、父よ」と叫ぶ御霊が「初穂」です。この御霊は、イエスを死者の中から復活させた方の御霊として、わたしたちの内にあって、わたしたちを死者の中から復活させる根拠となってくださっているのです。
 「ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか」。体の贖いとか死者の復活とはどのような事態であるのか、わたしたちには理解できません。それは「わたしたちが見ていないもの」です。「わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです」。

                              (一九九九年三号)