市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第82講

82 苦難の中で歓ぶ

 それだけでなく、苦難の中にあっても歓んでいます。わたしたちは、苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、希望は失望に終わることがないことを知っているのです。それは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです。

(ローマの信徒への手紙 五章三〜五節 私訳


 鉄はハンマーで打って鍛え、形を整えますが、鉄が冷たいときは、叩く力が鉄の弾性限界を超えると、打たれた鉄に歪みが生じ、亀裂が入り、ついに砕けてしまいます。そのように、人生の苦難は、それが人間の力によって耐えられる程度のものであれば、わたしたちを打ち叩いて鍛え、強い意志とか性格を造っていきますが、苦難がある限界を超えて大きくなると、ひがみや憎悪などを引き起こして心を歪め、性格を破綻させ、絶望とか自暴自棄に陥らせます。最近の苦労を知らないで育った世代は、忍耐する力がなく、僅かの苦難で、あるいは苦難ともいえない欲求不満で、「キレて」しまいます。
 ところが、鉄に火が入って赤く熱せられていると、ハンマーがどのように強く打っても、鉄を砕くことなく鍛え、鎌や鍬など有用な刃物に形を造っていきます。そのように、キリストにある者には聖霊によって神の愛という熱い火が注ぎ入れられているので、その神の愛に支えられて、苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むということを体験し、その希望は神の真実な愛のゆえに失望に終わることがないことを知っていますから、苦難の中でも確固たる希望をもって歓ぶことができるのです。聖霊によって注がれる神の愛が、苦難の中で勝ち誇って歓ぶというキリスト者独自の人生を形成するのです。
 神が愛であるというのは、一切の存在の根底が愛であるということです。わたしたちが魂の奥底で、自分を含む一切の存在の根底に愛があることを知ることこそ、究極の宗教体験です。わたしたちが敵であったときに御子キリストがわたしたちのために死なれたことで、神は世界にその愛を示されましたが、今や御子キリストを信じる者に聖霊を与えることで、心の奥底にまで愛を注いでおられるのです。聖霊体験は神の愛の体験であり、十字架の愛の迫りであり、新しいいのちの始まりです。福音は神の愛の啓示であり体験であることによって、人生に勝利をもたらす力なのです。

                              (一九九八年六号)