市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第74講

74 賜物としての時

いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。

(コリントの信徒への手紙T 四章七節)


 この言葉は、使徒パウロがコリントの教会の中で自分を優れた者として高ぶっている者を戒めるために書いたものです。知識にせよ、優れた霊的能力にせよ、信仰そのものさえも、主から恩恵によって賜ったものである以上、自分を他者と比べて高ぶることはできないはずです。パウロはこの言葉に続けて、「もしいただいたのなら、なぜいただなかったような顔をして高ぶるのですか」と言っています。
 この言葉は、恩恵の場に生きる者に深い共感をもって響いてきます。わたしたちが持っているものはすべて、自分の能力によって獲得したものではなく、資格がないのに恩恵として与えられたものです。最近わたしはとくに、時が自分の持ち物ではなく、恵みによって賜っているものであることを痛感します。時を自分の持ちものであるとすることは、人に対するものではなく、神に対する高ぶりです。
 朝目覚めますと、まずこの一日を賜ったことへの感謝が自然に溢れてきます。無くて当然のこの一日が与えられているのですから、この一日がどのような内容であろうとも、この一日を生きることができること自体が感謝であり喜びです。自分がゼロの立場から見ていますので、すべてのことが自分にはプラスに見えて、感謝となり、喜びとなります。たとえ今日一日限りであろうとも、この一日が感謝でなりません。
 時を自分の持ちものであるとしているかぎり、時を自分で満たさなくてはなりません。最近「生き甲斐」を語る本が溢れているのも、自分で生きる価値を見つけ、それで自分の時を満たさなければならないという渇望の現れでしょう。しかし、実際には、そのために十分な能力がないこと、仕事が忙しくて時間がないこと、歳をとって体力がないことなどを嘆き、焦りと不安がつきまといます。
 時を賜物として受けている場では、何ができなくても、この一日が感謝であり、喜びです。恩恵の場では「日々是好日」が自然に実現しています。

                              (一九九七年四号)