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72 目が開け

すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

(ルカ福音書 二四章三一節)


 ルカ福音書二四章(一三〜三五節)に、エマオへ向かう二人の弟子に復活されたイエスが現れた物語があります。これはルカだけにある物語で、ルカの復活信仰の特色をよく示しています。
 イエスが十字架の上に死なれた日から一日おいた週の初めの日に、二人の弟子がエマオに向かって歩いていると、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」というのです。ところが、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。目指す村に近づいたとき、イエスはなおも先に行こうとされるので、無理に引き止めて一緒に泊まります。食事の席でイエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、「目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のです。
 わたしたちがイエスの名によって集まり、そこで聖書を開き、語り合い祈るとき、そこに復活者イエスがおられるのです。ところが、わたしたちの「目が遮られている」かぎり、その事実が見えないのです。わたしたちの生まれながらの心は鈍く、旧約聖書の預言も理解できず、新約聖書の証言も信じられないのです。墓が空であったという婦人たちの証言を聞いても、その時の弟子たちと同じく、ただ驚き戸惑うばかりです。
 ところが、イエスからパンを裂いて渡されるとき、突如「目が開け、イエスだと分かる」のです。これは、イエスがわたしのために死んでくださったという十字架の永遠の現実の前にひれ伏すとき、聖霊の一閃がわたしたちの心を照らして、復活されたイエスのキリストとしての栄光を見させてくださることを物語っています。
 「目が開けて、イエスだと分かった」とき、「その姿が見えなくなった」というのは、霊の目が開け、復活者イエスの栄光が見えたとき、地上のイエスの姿は見えなくなったことを指しています。「目が遮られていた」とき見えていたのは、復活者としてのイエスの本質ではなく、地上のイエスの姿だけだったのです。霊の目が開かれたいま、地上のイエスの姿は見えなくとも、復活者イエスを見てわたしたちの心は燃え、魂は救いの喜びに溢れるのです。

                              (一九九七年二号)