市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第71講

71 生死の界に立って

「悲しむ人々は、幸いである
  その人たちは慰められる」。

(マタイ福音書 五章四節)


 長年病と闘いながら信仰の歩みを続けてこられた兄弟から最近いただいたお便りの中に、「病は有無を言わさず人を生死の界に立たせます。生きることに真剣にならざるをえません。しかしなかなかそうはなれない弱さも事実です。信仰とはこの生死の界に立たされて生きる姿であると受け取ってきました」とありました。
 わたしも若い時、死に脅かされ虚無に直面している生の意味を問う気持ちから信仰を求め、キリストを知り、以来地上の生と死を相対化するキリストの生に生きることだけを願いとしてきました。虚弱な体も主の恵みに支えられて、病気らしい病気もせず、入院の経験もなく過ごすことが許されました。ところが、昨年癌の手術を受けるという体験をしました。その後で「信仰とは生死の界に立たされて生きる姿である」という言葉を聞きますと、共感も一段と深まったのを覚えます。
 世には病気知らずの健康な人もいますし、病弱な人、生まれながらの難病に苦しむ人もいます。普通、健康は幸福の最大の条件とされ、健康で笑う人は幸福で、病気に泣く人は不幸だとされます。そして病気に泣かないために最大限の工夫と努力が払われます。しかし、健康だけを直接の価値とするならば、その幸福は結局老いと死によって否定され、老いや死の不幸を泣かなければならなくなります。それに対して、もし病気に泣く人が、病気のゆえに生死の界に立って、生死を超える価値を見いだすようになるのであれば、その価値のゆえにもはや老いも死も嘆くことはなくなります。
 このように受け取りますと、「悲しむ人々、泣いている人々は幸いである」と言われたイエスの言葉も諒解できます。生死の界に立たなければ、生死を超える価値を見いだし、小さな自己の生死を超える永遠の世界を観ることはできないのです。もし病気に泣くことが、人を生死の界に立たせ、生死を超える価値を見出させる機会となるならば、「泣いている人々は幸いである」と言えます。わたしたち人間は病気であってもなくても、実際は日々刻々生死の界に立っているのです。死はいつ来るか分からないのです。健康であるがゆえにそれに気づかず、生と死を相対化する価値を見出すことができないとすれば、その人生は不幸であると言えるのではないでしょうか。

                              (一九九七年一号)