市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第69講

69 あなたはそこにいます

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、
陰府に身を横たえようとも
 見よ、あなたはそこにいます。

(詩編 一三九編八節)


 イスラエルの信仰はここまで来ていました。詩編一三九編は、その存在の根底を創造者なる神に委ね、その全生涯を神の御手につかまれて生きている一人の人間の魂の声を響かせています。この詩編において、人間は自分の存在そのものが神によって形造られたものであり、自分の歩みがことごとく、すべてを知りたもう神に取り囲まれていることを、深い驚きをもって自覚し、神に感謝を捧げています。そして、その神が自分と一緒にいてくださる事実は、地上の生涯の限界を超え、天に登ろうとも、陰府に身を横たえようとも変わらないことをすでに知っています。「あなたはそこにいます」と。
 イエスはこの信仰を徹底されました。御自身が父と一つの姿で生きられただけでなく、限りない慈愛の父が無条件に人と共にいてくださることを語り告げてくださいました。男であれ女であれ、取税人であれ遊女であれ、宗教的・道徳的にどれだけだめな人間であれ、人が無条件で受け入れるところに慈愛の父がいますことを示されました。「父はそこにいます」と。
 イエスの横で犯罪者として十字架にかけられた男が、「わたしを覚えてください」と祈ったとき、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と断言されました(ルカ二三・四三)。死後の楽園とはどういうところか、わたしたちは知りません。しかし、わたしたちは死に臨んで限りない慈愛の父に向かって言います、「あなたはそこにいます」と。イエスと一緒にいるところが楽園《パラダイス》であり、父がいますところです。
 同じことをパウロはこう言っています。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(テサロニケT五・一〇)。わたしは、わたしを愛し、わたしのために死んでくださった主によって赦され、支えられ、この世で共に生きるように招かれました。わたしは眠りにつくとき、その主に向かって言います、「主よ、あなたはそこにいます」と。主キリストは何の資格もないわたしが、目覚めていても眠っていても(この世でもかの世でも)、父の限りない慈愛の中に生きるように、わたしのために死んでくださったのです。ほむべきかな、主イエス・キリストの父なる神!

                              (一九九六年四号)