市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第68講

68 流れのほとりで

バビロンの流れのほとりに座り、
シオンを思って、わたしたちは泣いた。

(詩編 一三七編一節)


 川のほとりに座り、限りなく流れ来たり流れ去る水を見ていますと、小は自分の人生の来し方行く末から、大は国や文明の興廃まで、歴史の流れを思い、さまざまな感慨が心に浮かびます。
 この言葉で始まる詩編一三七編は、異郷の地バビロンに捕らえ移されたイスラエルの民が、その地の川のほとりで、シオン、すなわちエルサレムの神殿を中心に祝福された故郷での生活を思い起こして、惨めな現実を嘆いた哀歌です。
 わたしたちキリストにある者は、捕囚として異郷の地にあるという状況でなくても、この詩編にはなにか共感を覚えるものがあります。それは、わたしたちが国籍を天に持つ者として、地上では旅人とか寄留者であるという自覚で生きているからでしょう。わたしたちも異郷の地で故郷を慕い憧れるという点では、この詩編と同じ境遇にいるのです。
 しかし、わたしたちキリストにある者は、この詩編との違いも感じざるをえません。この詩編は最後に、自分たちを苦しめた者に対する復讐の念に燃えていますが、わたしたちはキリストにあってすでに勝利を賜っていますから、苦しめる者たちのために平安の中で祈ることができます。また、この詩編は「竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた」と言って、賛美を歌うことを放棄していますが、わたしたちは竪琴を手にとって賛美を歌います。わたしたちは「主のための歌を異郷の地で」歌い続けます。
 わたしたちも歴史の流れと周囲の現実を見ますと、涙を流さざるをえません。しかし、わたしたちは希望を失うことはありません。神がすべての涙を拭い、嘆きを取り去ってくださる時が来ることを知っているからです。神は御子キリストを信じる者たちに、異郷の地にあってすでに、来るべき世の保証である聖霊を賜り、その現実に生きることを許してくださっているからです。わたしたちは異郷の地で呻きながら、聖霊によって来るべき栄光を望み見て、賛美の歌を歌い続けるのです。

                              (一九九六年三号)