市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第61講

61 わたしに帰れ

あなたは人を塵に返し、
「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

(詩編 九〇編三節)


 人はみな死の時を迎えます。やがて必ず肉体がすべての機能を停止し、冷たくなり、分解していくという冷厳な事実を、わたしたちの心はどのように受け止めればよいのでしょうか。その事実の中に、どのような言葉を聴くことができるのでしょうか。
 イスラエルの魂は死の事実の中に、「人の子よ、帰れ」という神の言葉を聴いていました。聖書には、「塵にすぎないお前は塵に帰る」と記されています(創世記三・一九)。創造者なる神は、「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記二・七)のですから、「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」(詩編一四六・四)のです。
 「人の子よ(ブネー・アダーム)」という呼びかけには、「土(アダマー)に属する者よ」という響きが聴こえます。イスラエルでは「人の子よ、帰れ」という言葉は、「土に属する者よ、土に帰れ、塵に帰れ」という創造者の定めとして聴かれていたのでしょう。事実、ここを「人の子よ、塵に帰れ」と訳している英訳聖書もあります。
 しかし、この言葉は、わたしには「人の子よ、わたしに帰れ」と聴こえてきます。たしかに、死は神が人を「塵に返す」ことです。わたしも「あなたはわたしを塵に返されます」と告白しなければなりません。しかし同時に、その死の現実の中に、「子よ、もうよい。わたしのところに帰ってきなさい」という、父の呼びかけの声を聴きます。
 「塵に帰れ」と聴くか、「わたしに帰れ」と聴くか、これはもはや字句の解釈の問題ではありません。一人の人間がその生涯をかけて形成した魂の姿の問題です。キリストにあって、自分の存在の根源なる方を慈愛の父として知り、仕え、その方の栄光だけを求めて生きてきた者は、冷たい死の事実の中に、「わたしに帰りなさい」という慈愛の父の温かい呼び声を聴くことになるのです。

                              (一九九五年二号)