市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第55講

55 聞くことと見ること

聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た、
万軍の主の都、わたしたちの神の都で。

(詩編 四八編九節)


 詩編四八編は、五節〜八節の表現から、何か歴史的な出来事を背景にしていることをうかがわせる。たとえば紀元前七〇一年にアッシリアの王センナケリブがエルサレムを包囲したとき、奇跡的に一夜にして都が救われた出来事が背景にあるという見方もある。確実なことは分からないが、そういうイスラエルの体験を背景にして読むと、この詩編がいっそう生き生きと喜びを響かせることは確かである。ヤーウェは契約の神として、ご自分の民とその都を固く立てられるという、耳で聞いていた約束の言葉が目の前で実現するのを、イスラエルは体験したのであった。
 福音も初めは約束の言葉としてわたしたちのところに来る。福音はキリストの十字架と復活の出来事を告げ知らせて、そのキリストを信じる者は、義とされ、聖霊を受け、復活の命にあずかることを約束する。その約束の言葉が事実となるのは、わたしたちが現実にキリストに結びつくときである。わたしたちが自分の価値や資格によって立とうとする姿勢を完全に放棄して、ただ十字架のキリストにおいて与えられている神の恩恵に自己を投げ入れ、キリストを主と告白して生きるとき(それを信仰という)、恩恵として賜る聖霊によって、神との新しい関わりに入っていることを体験する。それまではわたしから隔絶し、対立し、背きの責任を追求する審判者であった神は、わたしを無条件で受け入れ、限りない誠と愛をもって慈しんでくださる父となる。福音によって聞いていたことが、この身に実現したことを見る。
 しかし、この「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た」という告白は、わたしたちがこの体をもって地上に生きている限り、まだ部分的なものにすぎない。わたしたちはまだ、福音によって聞いている約束の言葉がすべて実現したことを見ていない。福音は、神がキリストに属する者を死者の中から復活させると約束している。かの日、わたしたちが霊の体を与えられて、復活者キリストと顔と顔とを合わせてまみえるとき、この告白は完成するであろう。

                              (一九九四年二号)