市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第51講

51 最後の敵

最後の敵として、死が滅ぼされます。

(コリントの信徒への手紙T 一五章二六節)


 人が生きていくとき妨げが多い。われわれが人間としての生の充実と完成を願って努力するとき、さまざまな敵対する力がそれを妨げ、生を破壊しようとする。病気も敵対する力の一つである。他にも、相互の間の不信や憎しみ、それを生み出す内面の傲慢や虚栄など、実にさまざまな敵が人間を取り囲んでいる。
 このような敵対する力を克服して、生を完成させるために人間は懸命の努力をしてきた。生産や医療の技術、法律や国家などの社会制度、そして内面の問題を克服するための宗教を発展させ、ある程度成功をおさめてきた。
 しかし、人間がどうしても克服できない敵がある。それは死である。死は最後の敵であり、克服不可能の敵である。いかなる技術、制度、宗教をもってしても、死を克服することはできない。たしかに、多くの宗教は死からの解放を与えると称している。しかし、諸宗教が与える解放は、死に対する内面の不安や恐怖からの解放であって、死の現実そのものをなくすわけではない。
 その中で、キリストの福音は「死が滅ぼされる」と宣言する。キリストをこの世に遣わされた神は、キリストを死から復活させて、死を克服する神であることを示された。この神は最終的に、キリストに属する者を死から復活させることによって、死そのものを滅ぼされるのである。そのためにキリストを初穂として復活させたのである。人が朽ちることのない復活の身体を着せられて生きるとき、もはや死は存在しない。
 キリストに結ばれて生きる者は、なお朽ちる身体の中にありながら、賜っている聖霊によって、この将来の復活を確かな事実として現在に生きている。これがキリストにある者の希望である。キリストに結ばれて生きる場では、「死が滅ぼされる」という希望が御霊によって現実の力となる。

                              (一九九三年四号)