市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第50講

50 隠れた自己本位制

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。

(マタイ福音書 七章三節)


 経済用語に「金本位制」という言葉がある。通貨の一単位が一定量の金と等価になるように、法律によって定められた貨幣制度のことである。この制度では、金がすべての経済価値の基準となる。ところが最近の土地価格の高騰により、土地が資産や信用の主要部分を占めるようになったので、わが国の経済を「土地本位制」だというようにもなった。厳密な定義は知らないが、この「本位制」という用語は、ある社会の経済的枠組みの基礎あるいは基準を示しているようである。
 経済界で用いられているこの「本位制」という用語を借用して、信仰の世界のことを表現してみよう。この世は「自己本位制」である。自己がすべての価値の源泉であり基準である。自分にとって望ましいものが価値あるものであり、自分にとって望ましくないものは価値のないものである。また、自分が一切の判断の基準になっていて、自分と違うものは悪として拒絶される。この世は人間の自己を基準として成り立っている。
 それに対して、信仰の世界、預言者と使徒たち、そしてイエスが生きた世界は「神本位制」である。神がすべての価値の源泉であり基準である。その世界に生きる者は、自分の願望や判断を捨て、神が望まれるものだけを価値あるものとして生きようとする。「神本位制」は「自己本位制」の徹底的な否定なくしては成り立たない。
 ところが、この「神本位制」に純粋に生きることはきわめて難しい。それが人間の営みであるかぎり、人間本性から出てくる「自己本位制」が混入してくる。「神本位制」の看板は出しているが、中身は「自己本位制」ということになる。神を利用して自己の願望を満たし、神の名によって自己という基準に生きようとする。「宗教」の大部分はこのような倒錯から出ている。
 イエスの時代のパリサイ派の人々は、熱烈に「神本位制」に生きていることを標榜していた。ところが彼らは、神の意志の啓示としての律法を「自分が」守り行うことを価値の基準として他者を測り、自分のように守っていない人たちを裁き、排除していた。彼らの宗教は、彼ら自身は気づかない形で「自己本位制」に転落していたのである。イエスは彼らのこの転倒を暴露されたのである。彼らだけでなく人間はすべて、「兄弟の目にあるおが屑は見える」、すなわち自分を基準として他者の些細な不足を裁いて排除しがちである。ところが「自分の目の中の丸太に気づかない」、すなわちそのようなことをする自分は「自己本位制」に陥っているのだという根本的な事実に気がつかない。
 人間が本性的な「自己本位制」を克服して、神の限りない恩恵だけが自分の存在の根拠となり、他者との関わりの基準になることができるのは、十字架の場だけである。

                              (一九九三年三号)