市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第49講

49 富におる道

わたしは貧に処する道を知っており、
富におる道も知っている。

(フィリピ書 四章一二節 協会訳)


 貧乏は辛いものである。欲しいものを手に入れることができないで辛い思いをする。いや、必要なものさえなくて惨めな思いを味わうことにもなる。生活に必要な物資さえこと欠くような貧窮の中で、心豊かに暮らすとか、人間の尊厳を維持することは、口で言うほど易しくはない。辛いことはすべて富さえあれば解決すると考え、ただ富だけを慕い求める浅はかな人間になってしまうことが多い。
 では、富に恵まれておれば、豊かで立派な人生が送れるのであろうか。実は、富の中で立派な人間として生きることは、貧の中で心豊かに生きることよりも難しい。富は人間を傲慢にする。富める者は自分の資産や能力を誇り、他人を見下げ、感謝する心なく、すべてが自分のためにあるような錯覚の中に生きるようになる。このような傲慢さは神がもっとも忌み嫌われるところであって、「富める者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われるのである。
 信仰の歩みにおいては、貧に処するより富の中にいて神と共に歩む方がよほど難しい。富の中で傲慢に陥ることなく、深い感謝の心で神だけを崇め、富を神のため隣人のために用いることができるためには、深い霊的な知恵と愛が必要である。使徒パウロと共に、「富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」と言うことができるためには、神の力であり、知恵であり、愛である霊なるキリストとの深い交わりが内面になければならない。この神の霊による秘訣を体得することを慕い求めないではおれない。
 日本も敗戦後の焼野原で貧に処する道を学び、必死に働いて今日の富を築き上げた。いまは富におる道が問われている。富に処する道を誤るならば、世界の嫌われ者となり、将来を失うであろう。いま日本は国家の政策や経済学説だけでなく、民族の霊性が問われている。

                              (一九九三年二号)