市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第48講

48 高ぶる目は低くされ

その日には、人間の高ぶる目は低くされ、
傲慢な者は卑しめられ、
主はただひとり、高く上げられる。

(イザヤ書 二章一一節)


 人間は本性的に自分を高くしようとする存在である。それがあまりにも深く人間の本性となっているので、自分を高くしようとする本性が罪であることは誰も気づかなくなっている。しかし、よく見ると人間関係のもつれや争い、民族間の戦争や抑圧、すべて人間が自分を他者より高くして支配しようとすることから生じている。そこから人間界の災禍や悲惨、苦悩や悲しみが生まれてくる。高ぶりは罪の根であり、悪の源である。
 昔イスラエルの預言者が神の霊によって語ったとき、神の前で人間のあり方が間違っていることを告発し、正しいあり方に戻るように叫んだのであった。そのさい預言者は個々の道徳的な問題よりも、人間の根本的なあり方が間違っていることを、神の裁きという形で語ったのである。神が最終的に人間の罪を裁かれるとき、何が根本的な罪として裁かれるのか。それは人間の高ぶりである、とイザヤは叫ぶのである。その高ぶりは、人間が神だけを高く崇めないで、神の前に自分の価値を誇る高ぶりから発している。
 この裁きはイエスが十字架につけられて死なれたとき実現した。復活してキリストとされた方イエスが十字架の上で死なれたとき、そこで人間の根源的な罪が裁かれたのである。キリストがわたしたちすべての者のために砕かれたとき、そこで人間の高ぶり、傲慢が打ち砕かれたのである。イザヤが叫んだ「その日」が実現したのである。キリストが自分のために死なれたことを受け入れるとき、自分は死に、高ぶりは砕かれる。自分がゼロである場に立つとき、自分の存在すべてがただ主の恩恵によるものであることを実感する。わたしの中で「主がただひとり、高く上げられる」。そのような恩恵の場、自分がゼロである場に生きるとき、他者に対して高ぶることもなく、取り繕うこともなく、依存することもない自由な境地が開ける。狭いトンネルから広い野原に出たように、人生が突然明るく楽なものになっていることを実感する。

                              (一九九三年一号)