市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第43講

43 神からの勇気

いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。

(新共同訳 詩編 八四編六節)


人生の行路にはさまざまな障害があります。すべてが計画通りに行くとは限りません。すべて自分の希望通りになるわけではありません。むしろ、そうならないのが普通です。その時に、落胆して安易な道に逃げ込んだり退却したりするか、勇気を出して困難に挑戦し障害を突破しようとするか、その人の態度によって人生は大きく変わってきます。勇気は困難や障害の多い人生を生き抜く原動力です。だが、わたしたち凡人は勇気に欠けることを嘆かなければならないことが多いようです。
失敗したり行き詰まったりして落胆している時、「元気を出せ」と励まされるのは有難いことです。しかし、人からどのように励まされても立ち上がれない時があります。困難があまりにも大きく、挫折があまりにも度重なると、立ち向かう気力も尽き果てて、心は回復する弾力を失い絶望の淵に沈みます。人の心はそれほど強靭ではありません。そのような時、わたしたちはどこから勇気を得ることができるのでしょうか。元気はどこから湧き起こるのでしょうか。
 信仰者は自分の心の弱さを知っています。しかし、いや、それだからこそ、自分を超えたところから勇気をいただくのです。自分から勇気を出すことができなくなった時、信仰者は自分を生かし支えてくださっている方、自分の存在の根源である方に自分を委ねてしまいます。その方が死ねと言われるのであれば死にます、生きよと言われるのであれば生きます、という全面的な委ねです。そのような委ねの中で、「生きよ」、「進め」という声を聞くことが勇気の源泉です。その時、実際の状況はどのように困難でも、心では自分の前に「広い道」が開けているのを見ます。その道は神が一緒にいてくださる道です。
 イエスは行き詰まり倒れ伏している人々に立ち上がる勇気を与える方です。立ち上がって神に帰り、神に生きる勇気を与える方です。律法は弱い人間に神の要求を突きつけ、それを満たすことができない者を裁き、わたしたちから神に生きようとする気力を奪い去ります。わたしたちが倒れ伏して立ち上がれないのは、病気や失敗など人生の困難が大きいからではありません。意識するとしないとにかかわらず、魂が律法の裁きに押さえつけられて、神に生きようとする勇気を持てなくなっているからです。そのような人々にイエスは手を差し伸べ声を掛けられるのです、「父はあなたを無条件で受け入れてくださっている。何も心配することはない。さあ、立ち上がって父のもとに帰りなさい。父と共に生きなさい」と。無条件で受け入れてくださっているという父の恩恵が勇気の源泉です。この恩恵を知った魂は喜々として父に帰ってくるのです。人間的な状況は相変わらず困難を極めていても、魂はその状況を突き抜けて、神に生きる喜びと力に満ちるのです。この状況を突き破る魂の喜びと力が勇気です。
 主イエスは世を去るにあたって弟子たちに言われました、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ一六・三三)。神に生きようとする信仰者は世では困難に直面せざるをえません。世は本質的に神に敵対しているからです。しかし、恐れることはありません。イエスが既に世に勝っていてくださるからです。イエスも世では苦しみをお受けになりました。しかし、その苦しみの中で既に勝利を見ておられます。神に生きる命が死を打ち破ることを知っておられます。その神の命の喜びと力が、十字架に立ち向かうイエスの勇気です。イエスに従う者も、福音が与える希望と喜びを魂の力として、勇気をもって苦難に立ち向かうことができます。
 神からの勇気をもって歩む者について、詩編はこう歌います(七〜八節)。
 
 歎きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

                              (一九九二年二号)