市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第39講

39 生涯の祈り

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り、
主を仰ぎ望んで喜びを得、
その宮で朝を迎えることを。

(詩編 二七編四節 新共同訳)


 人はさまざまな願いをもって生きています。このドレスが欲しい、あの車が欲しいというような日常的な願いから、大統領・総理大臣になりたいという野心的な願望まで、実にさまざまな願いが人間を衝き動かしています。けれども、その時その時の願いに振り回されて、生涯全体としては何を目標にして生きたのか分からないような人生は、生きがいのない虚しい感じがします。人は人生の意義とか生きがいとかを考えるようになると、生涯の目標を自覚して生きようとします。目標がはっきり定まっている人の人生は張りがあります。日々の生活や個々の行動が、一つの目標によって統合されて、生きがいを形成します。しかし、その目標が地上のものであるかぎり、目標が達成されたり、達成を断念せざるをえないようになったり、達成のために努力することが無意味になったりして、目標がなくなる時がきます。たとえば、富のためであれ、地位のためであれ、目標達成のために猛烈に働いてきた人が定年を迎えた時に、虚脱状態に陥ることがよくあります。また、高齢化時代を迎えて、最近老人の生きがいがよく議論されています。その時、健康であることだけが願いであるというような声をよく聞きます。たしかに健康はたいせつなもの、有難いものです。しかし、健康であっても、その体で生きるのに何の目標もないというのは、目標がない人生であって、淋しいことです。
 イスラエルの信仰深い魂は、この詩編の祈りに見られるように、健康とか家庭とか富とか権力とか地上の何よりも、神の家、主の宮に宿ることを願いました。それを生涯を貫くただ一つの願いとして生きました。いつも主の宮に住んで、主の臨在に触れ、主の栄光の輝きを拝し、そこから喜びを得ることだけを願いとして、祈り求めました。「主を仰ぎ望む」というのは、神殿ですることです。しかし、この願いは、文字どおりに理解すると、成り立たない願いであることが分かります。「主の家」とか「主の宮」というのは神殿を指します。一般の人が神殿の中に住むことはできません。とくに地方のイスラエル人が神殿の中に入るのは、年に三回の大祭の時だけです。まして、神殿で夜を過ごし、「その宮で朝を迎える」ことはごく例外的なことだったと思われます。それにもかかわらず、主を慕う魂は「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」願わないではおれなかったのです。彼らは文字どおり神殿に住むことではなく、壮麗な神殿で主の栄光の臨在に触れるあの喜びが、神殿から離れた日常生活の中で、自分の内面にいつも宿っているようになることを願っているのです。では、「命のある限り、主の家に宿る」ことを願った後、なお「その宮で朝を迎えることを」願っているのは、どういうことでしょうか。「命のある限り」の後ですから、命が果てた後、永遠の朝に目覚める時のことを指していることになります。この詩編がいつごろ作られたのか、その時イスラエルでは復活の信仰がどれほど具体的な形をとっていたかは知りません。しかし、「命のある限り、主の家に宿る」ことだけを祈り求めて生涯を貫いた魂は、同じ場で永遠の朝に目覚めることをも祈らないではおれないのです。この祈りは、霊的な信仰生涯は復活信仰にまで至らなければ一貫しないことを予感しているのです。
 わたしたちキリストを信じる者の生涯も、これと同じ祈りで貫かれています。イスラエルの祈りは神殿を象徴としていましたが、わたしたちの場合はもはや神殿はありません。キリストが霊の宮です。「エン・クリストー(キリストにある)」の場こそ、わたしたちが慕い求める住まいです。キリストに結ばれ、キリストに合わせられて生きることから来る喜びこそ、わたしたちが生涯を貫いて祈り求めるただ一つのものです。そして、キリストと共に生きる生涯を貫いた後、「キリストにあって朝を迎える」、すなわち復活の朝に目覚めることを待ち望んでいるのです。命のある限りキリストと結ばれて生き、命果てた後、キリストと共に復活の世界に目覚めること、これがわたしたちの生涯を貫くただ一つの願いであり祈りです。

                              (一九九一年五号)