市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第38講

38 御名を呼ぶ

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、
 我らは、我らの神、主の御名を唱える。

(詩編 二〇編八節 新共同訳)


 詩編は「主の御名」への賛美で満ちている。イスラエルの賛美はことごとく「主の御名」に向かう。「主の御名」こそイスラエルを支える力である。イスラエルは「主の御名を知る者」であり、「主の御名を負う者」である。「主の御名」とは「ヤーウェという呼び名」であると同時に、「イスラエルに現されたヤーウェの本質」を指している。両方ともモーセによってイスラエルに示された(出エジプト記三・一三〜一五と三四・五〜七)。名とは本来言葉によって表現された事物の本質である。神の名は神の本質を啓示する言葉である。モーセによって啓示された「御名」によって、イスラエルはヤーウェなる神が、その限りない慈しみとまことによって、自分たちの存在の根源である方であることを知ったのである。そして、「御名を知る人はあなたに依り頼む」(詩編九・一一)。イスラエルは、民族の歴史の中で、また個人の生活の中で、ヤーウェの慈愛と真実が神の民としての自分の存在の拠り所であることを経験してきた。イスラエルが深い淵からヤーウェに救いを求める時、御名を呼び求めているのである。イスラエルが「主の慈しみとまこと」を賛美する時、御名を賛美しているのである。
 周囲の諸国民が「戦車を誇る者、馬を誇る者」、すなわち自分の力を誇り、自分の能力に依り頼む者であるのに対して、イスラエルは神の民として、ただ自分たちの神である「ヤーウェの御名」を唱え、その御名を自分たちの存立の唯一の拠り所としたのである。このような信仰は一朝一夕にできたものではない。王国時代のイスラエルは周囲の諸民族の圧倒的な経済力や軍事力に脅かされて、あちらの大国こちらの強国と同盟して存立を図ったのである。預言者たちはそのような人間的権勢に頼る姿勢を、「彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない」(イザヤ三一・一)と厳しく批判した。結局バビロン捕囚に至る歴史の悲劇を体験して、イスラエルはもはや戦車や騎兵の力に頼るのではなく、ひたすら「主の御名を唱える」こと、すなわち信仰に民の存続の根拠を求めるようになったのである。
 わたしたちキリストにある者も「主の御名を唱える」。わたしたちが唱える御名は「主イエス・キリスト」である。「イエス」とは十字架につけられた方の名、「キリスト」とは神の力によって死者の中から復活された方の名、そして、「主(キュリオス)」とはその方の称号、すなわち復活によって死せる者と生ける者の主として神の右に挙げられ、やがて世界を裁き完成する主として神の栄光の中に現れるべき方であることを示す称号である。その方の死はわたしたちの罪のためであり、その復活はわたしたちの初穂としての復活である。わたしたちが「主イエス・キリスト」の名を唱えるとき、このような十字架・復活のキリストを神の本質の啓示として告白し、この啓示の出来事に自己の全存在を投げ入れているのである。「唱える」とはこれ以下ではない。
 わたしたちは「深き淵から」主の御名を呼ぶ。自分を支える足場や手がかりがまったく何もない深淵から、ただ主の御名を呼ぶ。人生には様々な試練がある。病気や計画の失敗、家族や対人関係のもつれ、もうどうしてよいのか分からない行き詰まりや挫折に直面するとき、わたしたちは主の御名を呼ぶ。その結果、思いがけない仕方で問題が解決される場合がある。また、解決されない場合もある。どちらの場合も、ひたすら主の御名を呼び求めている姿に、地上の禍福を超越して霊界に呼吸する魂の至福がある。しかし、主の御名を呼び求めるのは、人生の試練の時だけではない。むしろ、魂の暗闇の中からである。信仰に行き詰まり、疑いの黒雲が沸き起こり、心が罪の呵責に苦しみ、自分の弱さや不信に絶望する時、その魂の暗闇、深淵からひたすらに主の御名を呼ぶ。わたしの罪のために死なれたキリスト、わたしの復活の保証として復活されたキリスト、このキリストの事実と、その背後にある神の無限の慈愛と真実に自分のすべてを投げ入れる。死の床にあって、目の前にはただ不可解な暗黒の死がある時、わたしたちは主イエス・キリストの御名を呼ぶ。その十字架と復活によって、一切の暗黒の力に勝利しておられる主の御名を呼ぶだけである。

                              (一九九一年四号)