市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第36講

36 墓を空にする信仰

なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにおられない。復活されたのだ。

(ルカ福音書 二四章五〜六節)


 春分の日や秋分の日は、日本ではお彼岸といって大勢の人が墓参りに出かけます。この習慣は、正月とお盆と並んで、日本人の宗教性のもっとも自然な現れでしょう。墓参という宗教行為には、日本人古来の祖先崇拝、仏陀の遺骨崇拝の影響、仏教、とくに浄土系仏教の信仰などが奇妙に混じり合っているのが見られます。では、キリスト者にとって墓は何でしょうか。
 多くの宗教では、開祖の墓所や遺骨は信仰の依り所として崇拝されています。しかし、キリスト者はイエスの墓を捜して、墓参しようとはしません。たしかに、イエスも当時のユダヤ人の習慣にしたがって墓に葬られたのです。けれども、イエスの墓はもはやどこにあるのか分かりませんし、たとえ分かったとしても、その墓には「彼はここにおられない」という言葉が刻み込まれているからです。わたしたちは、墓を破って復活された方を信じているのです。わたしたちは、信仰の依り所を死者に求めているのではありません。いま生きておられる方に求めているのですから、墓を捜す必要はないのです。
 イエスは復活されたのです。復活されたイエスは弟子たちに現れ、語りかけ、食事も共にされました。復活されたイエスに出会った体験は、弟子たちにとって自分の命をかけて証言しないではおれない確かな出来事であったのです。彼らはイエスの復活に神の終末的な救いの業を見たのです。彼らの復活信仰、すなわち復活者キリストと出会い、共に生き、最終的に死者の復活にあずかるという信仰は、聖霊による神の力強い働きの結果です。 
 四福音書のイエス復活の記事はみな、空の墓の報告で始まっています。日曜日の朝、たしかにイエスを葬った墓は空になっていました。もし、イエスの遺体が墓の中に残っていたのであれば、五十日後にエルサレムで始まったイエス復活の宣教は、遺体という証拠を突きつけられて反駁されたでしょう。けれども、空の墓が復活信仰を生み出したのではありません。墓が空になっているのを見たとき、弟子たちはただ驚きあやしみ、戸惑うだけでした。彼らが復活信仰にいたるのは、聖霊の働きとして、復活されたイエスと出会ったからです。この復活者の顕現を体験し、復活信仰に生きるようになった結果、彼らは墓が空であったことを、福音の不可欠の部分として大胆に語ることができたのです。誤解を恐れず極言すれば、空の墓が復活信仰を生み出したのではなく、復活信仰が空の墓を生み出したのです。
 わたしたちの場合も同じです。イエスの墓が空であった証拠を得たから、復活信仰を持つにいたったのではありません。キリストの十字架と復活を告げ知らせる福音を信じることによって、聖霊の働きにあずかり、復活信仰に生きるにいたったのです。その結果、イエスの墓が空であったことも、信じることができるのです。それだけでなく、復活信仰は自分の墓も空にします。わたしたちは復活者キリストと出会い、古い自我はキリストと一緒に十字架されて死に(わたしたちはすでに一度葬られたのです)、復活にいたる新しい命に生き、キリストが来臨されるときには死者の中からの復活にあずかる約束の下に生きるようになりました。わたしたちは、覚めていても眠っていても、すなわち地上に生きている時も死んだ後も、復活者キリストと共にいるようにされているのです。肉体が死んだ後、その骨が墓に納められようと、わたしたちは墓の中にいるのではなく、復活者キリストと一緒にいるのです。わたしたちの墓石に何と刻銘されていようと、神がわたしたちの墓に、「彼はここにはいない」と書き記してくださるのです。死後ただちに、その遺体が「霊の体」に変えられたイエスの場合とは違って、わたしたちの場合は、この「自然の命の体」が朽ち果てた後、新たに「霊の体」が与えられる終末の時を待たなければなりません。しかし、もはやそこにはいないという意味で、墓が空にされたことは同じです。復活信仰は墓を空にするのです。

                              (一九九一年二号)