市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第35講

35 聴かれざる祈り

天から遣わしてください
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。

(詩編 五七編四節)


 人生にはさまざまの種類の苦難が襲いかかり、さまざまな形の危機が訪れる。われわれは知恵を絞り、忍耐の限りを尽くしてその苦難や危機に対応する。信仰者も人生の苦難や危機を免れてはいない。この世の人々と同じように直面する。むしろ信仰のゆえに受ける苦しみが増えるだけである。ただ、信仰者が世の人々と違うのは、苦難や危機に直面したときに、神に助けを呼び求めることができることである。詩編は、このような苦難の中にある信仰者が、神に助けを呼び求める叫びで満ちている。
 われわれが苦難や危機に直面したとき、まず神に叫び求めることは、その苦しみの原因が取り除かれることである。人の力や知恵ではどうしようもないことが、人知を超えた神の力によって解決することである。そして、その祈りが聴かれて、人の思いをはるかに超えた形で問題が解決することがある。そのような時には、ただ畏れと驚きをもって神を賛美するのみである。しかし、どのように熱心に祈り求めても、事態は好転しないで、苦しみは深くなるばかりという時もある。信仰者はこのような時、「聴かれざる祈り」の問題に苦しみ、自分は神から見捨てられているのではないかと不安に襲われる。
 そのような信仰者が、神に助けを呼び求める最後の叫びがこの祈りである。もはや状況の好転を願うのではなく、苦しい事情のただ中で、魂の奥底に神の慈しみと真実とが示され、実感されて、自分の内面に起こるその事実に依り縋ることができるようにしてくださいと祈るのである。これは自分の知恵も忍耐も気力も信心深さも当てにすることができなくなった時、神が無条件絶対の恩恵をもって自分を受け入れてくださっている慈しみの事実、また御自身の言葉を必ず成し遂げるという永遠に変わることのない真実をもってわたしに対してくださっている事実が、自分の内側で最後の拠り所となるようにしてくださいと祈っているのである。
 このようなイスラエルの祈りに応え、その背後にある人類の呻きに応えて、神は世界に「慈しみとまことを遣わして」くださった。それがイエス・キリストである。モーセをはじめ多くの賢人哲人を通して知恵や教えや戒めは十分に与えられていた。今やイエス・キリストを通して神の恵みとまことが世界に現れたのである。世に現れただけではない。主イエス・キリストを信じる者の魂の奥底にまで遣わされたのである。信じる者に「賜る聖霊によって神の愛が心に注がれ」るのである。聖霊によってキリストの現実に入っていくとき、神の愛、恩恵、誠が自分の内側で確かな現実となり、苦難の中での最後の、そして最も確かな拠り所となる。キリストに結ばれて生きる者には、もはや「聴かれざる祈り」はない。「慈しみとまことを遣わしてください」という最後の祈りは、聖霊を求める祈りとなり、それは必ず聴かれるからである。

                              (一九九〇年七号)