市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第34講

34 わたしの幸い

あなたはわたしの主、
あなたのほかにわたしの幸いはありません。

(詩編 一六編二節)


 この世にはじつに多くの神々がある。ここで「神々」というのは、人が自分の幸福の拠り所とする聖なる存在ないし力のことである。「聖なる」というのは、なんらかの意味または程度において、普通の人間の在り方からは隔絶していることを意味している。人間は古来、通常の人間の能力を超えて現れる不思議な力、とくに霊的な力を畏怖して神として拝み、その神を自己の幸福の究極の拠り所とした。そのような神は、民族により、部族により、時代により、そして時には個人によって違ってきて、無数の神々になるのは当然である。そして、どのような神を拝むかによって、人間の幸福の中身も違ってくることになる。
 昔は素朴に自然の力を神としたり、霊能者を通して働く霊を神として拝み、その働きを語る神話によって共同体の神として代々に伝えていった。しかし、科学が発達し知識が進んだ現代では、もはや神話の神々を幸福の拠り所とすることはできなくなっている。けれども、神々がなくなったのではない。もはや神とは呼ばれないが、人間が造り出したものがなんらかの意味で絶対化されて、幸福の拠り所とされている。国家とかイデオロギー、富とか文化、科学とか技術、このようなものが絶対的な価値として拝まれている。神々は世俗化しただけである。
 何を、または誰を神として拝むのか。何に向かって、または誰に向かって、この詩編の告白を捧げるのか。それが問題である。イスラエルは、異邦の民の神々を拝む誘惑との戦いや地上の権力や栄光を失う試練の歴史を通して、その神ヤハウェに向かってこう告白するに至った。われわれはヤハウェの真理を成就したキリストに向かって、この告白を捧げる。キリストだけがわたしの主であり、キリストのほかにわたしの幸いはない。わたしのために十字架され、わたしのために復活したキリストだけが、わたしの幸福の拠り所である。
 この詩編の告白は続く。「主はわたしに与えられた相続分、わたしの杯。・・・・わたしは輝かしい相続分を受けました」(五〜六節 私訳)。世には輝かしい資質や資産を受け継いで生まれてくる者がいる。病気知らずの健康な身体、優秀な頭脳、高貴な家系、豊かな財産や土地、こういうものを生まれながらに受け継いでいる恵まれた人がいる。人々は彼らこそ幸福な人であると言う。しかし、羨むことはない。われわれは、はるかに勝る相続分を受け継いでいるのである。キリストこそそれらすべてに勝る資産である。キリストの中には一切の神の富が隠されているからである。神の義と栄光、復活の生命、すべてはキリストの中にある。もしわれわれが、このようなこの世の相続分がない貧しさゆえにキリストを得たのであれば、われわれはその貧しさを喜ぼう。復活の生命を与えるキリストは人間の究極の幸福であるから。

                              (一九九〇年六号)