市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第32講

32 死後の世界

地上であなたを愛していなければ
天で誰がわたしを助けてくれようか。

(詩編 七三編二五節)


 人は死ねばどうなるのであろうか。死後の世界はどのような世界であろうか。これは人類の永遠の疑問である。古今の宗教はすべて何らかの形でこの問いに答えようとしてきた。しかし、その答えは実に様々で、結局は確かなことは何も分からない、としか言えない。死後の世界を否定し、人は死ねばいなくなるだけだと考える人も多くなったが、これはごく最近の一部の人の間の現象であって、人間はその全歴史を通して、死後の世界の存在を確信してきたし、この疑問は今もなお人類の普遍的な問いである。
 では、福音は人類のこの疑問に対してどう答えているのか。死後の問題については、福音はまず「死者の復活」の使信をもって答えている。創造者なる神は、イエスを死人の中から復活させて、終わりの日に成し遂げると約束されていた人間救済の業を開始された。このイエスをキリストと信じて彼に属する者となった民は、イエスが復活されたように、死者の中から復活すると約束されている。わたしたち福音を信じる者は、この神の約束により、死後に復活を待ち望んで生きている。
 しかし、これは最終的な約束である。それが成就する時まで、わたしたちも死ねば死者の世界にいることになる。その世界がどのようなものであるかについては、福音はほとんど何も語っていない。福音を信じて生きる人生においても、死後の世界のことは分からないという事情は変わらない。けれども、福音を信じてキリストに結ばれて生きる者には、一つだけ確かに分かっていることがある。それは、わたしたちは今この地上の人生で主キリストを知り、キリストに結ばれて生きているが、この同じキリストが死後の世界でも「主」として統べ治めておられるという事実である。
 この事実を新約聖書はこう表現している。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(テサロニケT五・一〇)。ここで「目覚めている」とは地上に生きていることであり、「眠っている」とは死後の世界にいることである。わたしたちが死後の世界でも主キリストと共にいることができるようになるために、キリストもひとたび死を味われたのである。キリストは「生ける者と死せる者の主」、この地上の世界と死後の世界両界の主である。わたしたちの死後の世界についての確信と希望は、ただこの一つの事実に基づいている。
 地上の人生で生けるキリストを体験し、具体的に愛し仕える事実がなければ、死後の世界に関する約束はすべて言葉だけのものになり、確かな根拠は何もなくなるであろう。わたしたちはこの地上の人生でキリストを知った分だけ、彼方の世界での確かさを得ることになるのである。

                              (一九九〇年四号)