市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第29講

29 マリアの幸福

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。

(ルカ福音書 一一章二八節)


 ある時、イエスが話をしておられると、群集の中から一人の女性が大きな声で、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだ。この女性はイエスの人物の素晴らしさに圧倒されて、このような人物を産み育てた女の幸せを思って、思わず叫んでしまったのであろう。子を産み育てることは女性に与えられた特権である。それは労苦も大きいが、女性の幸福の中で最も深いものであろう。自分が「腹を痛めて」産み出した生命を、深い絆の中で慈しみ育てることは、それ自体すでに大きな幸福であるが、さらにその子が多くの人に仰がれるような立派な人物になれば、母としての誇りと喜びはどれほどのものであろうか。
 この女性の叫びは、初代の信徒の群の中でのマリアの立場を思い起こさせる。イエスの母マリアは、イエスの復活後、信じる者たちの群に加わっている。イエスを復活された神の子と信じる者たちが、そのイエスを産み育てたマリアに対して深い畏敬の念を持ち、女性の中で最も恵まれた者として賛嘆したことは十分想像できる。そのようなマリアの幸せへの賛嘆に対して、「いや、むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの言葉は向けられているのである。
 近年、女性論が盛んである。現代には、現代でなければ考えられないような女性の生き方や幸福論がある。何が女性の幸福であるかは、時代と共に変転する。けれども、女性を女性にしているものが胎と乳房であることは、いつの時代も変わることがない。子を産む胎と子を育てる乳房、これがもたらすいつの時代にも女性の幸福である。もし、人と人とのつながりが人間の幸福の中身であるならば、母と子のつながりほど深いものはないのであるから、よい子を産み育てる女性は最も幸福な人間であると言える。
 イエスの言葉はこのような人間的な女性の幸福論を乗り越える。女性は子を産み育てるから幸せなのではなく、また子育ての苦労がなく気ままに生きられるから幸福なのでもない。女性を本当に幸福にするのは胎と乳房ではなく、また、それらの否定でもない。それは神の言葉である。神の言葉に出会い、神の言葉によって生きることが、女性としての幸せになる。「神の言葉を聞いてそれを守る」というのは、道徳的な行為のことではない。自分の存在の根源から発する言葉と出会い、その言葉の永遠なる質を自覚して、その言葉の現実に生きることである。そして、信仰がこのような質の言葉との出会いを可能にする。これは男女を問わず、人間の幸福の土台である。女性もこの土台の上に人生を築くとき、子があってもなくても、夫があってもなくても、女性としての幸福がある。
 マリアもイエスをその胎に宿し、イエスがその乳房を吸ったから幸福な女性であるわけではない。「お言葉どおり、この身になりますように」と、神の言葉にひれ伏して生きたから、世々の人から幸いな女性と呼ばれるようになったのである。

                              (一九九〇年一号)