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28 食卓の信仰

「取って食べなさい。これはわたしの体である」。

(マタイ福音書 二六章二六節)


 食べることは人間が生きていくうえで最も基本的な営みである。そして最も日常的な営みでもある。人間は毎日何かを食べなければ生きていくことはできない。この最も基本的で日常的な営みが、イエスのこの一言葉によって最も深い宗教的真理を担う営みになる。
 イエスはガリラヤで神の国を宣べ伝えられた時、当時の宗教の枠から落ちこぼれた者とされていた取税人や遊女や罪人たちと食事を共にすることによって、ご自分が彼らの仲間であること、彼らのところにこそ神の国が来ていることを示された。また、弟子たちには寝食を共にする日常の生活の中で神の国の真理を語り教えられた。イエスの教えには、宴会の食事とかパンとか食べることを譬にしたものが多い。そのイエスが地上での最後の食事の席で、パンを食べる行為そのものについて語られた言葉がこれである。この最後の一言葉には、イエスが世に与えようとされたすべてがこめられている。
 それは過越の食事の席であった。過越というのは、昔神がイスラエルをエジプトから救い出してくださったことを記念する春の大祭である。この時期にはイスラエル全土から人々がエルサレムに上ってきて、神殿で過越の小羊を屠り、それを家族や小グループで食べてこの祭りを祝った。イエスはこの時期に合わせて、ご自分の命を狙う者たちが待つエルサレムに上られた。それはご自分の死を過越を成就するものとしておられたからである。昔神がイスラエルを奴隷の家から救い出されたように、今ご自分の死によって人間を罪の支配から救い出すための神の最終的な業が成就することを知っておられたからである。イエスはこのことのために、わたしたちのために死なれた。その死を土台にして、神と人間の新しい関わりが実現するのである。そして、死の前夜の最後の食事の席で、ご自分の死が何であるかを弟子たちに語られるのである。
 この最後の食事の時、イエスはパンを取って裂き、弟子たちに与えて言われた、「取って食べなさい。これはわたしの体である」。いま弟子たちが手に取って食べようとしているパン、それがご自分の体であると言っておられるのである。そのパンを食べることは、イエスの体を食べることになる。イエスの死の意義についての説明を聞いているだけでは何の役にも立たない。イエスがその死によって与えようとされるものを現実に受け取るためには、そのパンを食べるように、自分のために死んでくださったイエスと一つにならなければならない。この言葉が過越の祭りの時にだけ食べることができる羊についてではなく、毎日だれもが食べるパンについて言われたことも意義深い。この言葉は教会のミサや聖餐という特別な宗教的な場で与えられるパンについて語られているのではない。誰もが毎日食べる日常の食事のパンやご飯が、この御言葉の下に置かれることによってイエスの体となり、それを食べることが終末的な神人関係をわれわれの身に実現する出来事を指し示すことになる。宗教とか信仰は日常生活から離れた別の所にあるのではない。それは食卓という日常生活のただ中にある。

                              (一九八九年七号)