市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第25講

25 死なない者がいる

 イエスは言われた、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現われるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。

(マルコ福音書 九章一節


 人はみな必ず死ぬというのは本当であろうか。イエスのこのお言葉は、人はみな必ず死ぬという人類の常識に挑戦している。「神の国が力にあふれて現われる」時とは、神がご自分の民に、朽ちはてる卑しい体に代えて、朽ちることのない栄光の霊の体を与えて、その支配と栄光を現わされる時のことである。それまで死なないというのは、この地上に生きている間にこの復活の時に出会って、死を体験することがないことを意味する。そういう者がいまここに一緒にいる者たちの中にいる、とイエスは断言しておられる。
 イエスが復活された時、「神の支配」は死にも打ち勝つものであることが現われ、弟子たちは地上のイエスの中に隠されていた「神の国」が「力にあふれて現われるのを見た」のであった。しかし、それがすべてではない。イエスの身に起こったことが、イエスを信じイエスに結ばれて生きる者たちにも起こることを、彼らは信じた。使徒たちと初代の信徒たちは、聖霊に迫られて、イエスが再び来られてこのことが起こる時が切迫していると確信していたので、彼らにとってこれは自分の死よりも確かな、差し迫ったことであった。
 使徒たちや初代の信徒たちがこのように信じていたことは、新約聖書が証言している。パウロの初期の手紙には、この出来事が起こる前に「眠りについた(死んだ)」人が出たことを信徒たちが意外に感じていることを窺わせる文面がある。パウロ自身も「わたしたちは皆が眠りにつく(死ぬ)わけではありません。・・・・最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、(地上に生存している)わたしたちは変えられます」と言っている(コリントT一五・五一〜五二)。
 けれども、彼らの生存中には「最後のラッパ」は鳴らなかったではないか。彼らの信仰は間違っていたのではないか。そうではない。彼らはイエスの御言葉を真剣に受け止めて生きたのである。イエスが「それを見るまで死なない者がいる」と言われた以上、誰かが、あるいはどの世代かが死を味わうことなく栄光の体に変えられることを体験するはずである。聖霊に溢れて間近な再臨の希望に燃えて生きている信徒たちは、自然に自分たちがその世代であると受け止めていたのである。彼らにとっては、その時自分が生きているか死んでいるかよりも、主の来臨の出来事のほうが確かであり、重大な関心事であった。
 イエスのこの御言葉はすべての時代に向かって語られている。イエスと共にいる者たちの中で、「神の国が力にあふれて現われる」時、すなわち神が死者を復活させられる時を、地上に生きていて迎える者がいる。その時、自分もその中にいるかも知れないし、もう眠りについているかも知れない。その時、自分が覚めているか眠っているかはもはや問題ではない。主と共にいて、死者の中からの復活にせよ、地上にいて変えられるにせよ、霊の体を与えられて神の栄光にあずかるかどうかだけが問題である。ここでは死生は相対化されてしまっている。

                              (一九八九年四号)