市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第23講

23 不義の富を用いて友を作れ

 「そこで、わたしはあなたがたに言っておくが、不義の富を用いて友を作れ。そうすれば、富が無くなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。

(ルカ福音書 一六章九節


 ある時、イエスは一つの譬を語られた。主人の資産や事業の管理を委ねられていた男が、主人の財産を自分のために用いて主人に損失を与えているという報告が、主人の耳に入った。そこで主人は会計報告書の提出を求め、解雇を通告した。この管理人は解雇された時に自分を迎え入れてくれる友を作るために、主人の債務者を呼んで、借用証の内容を少なく書き換えさせたというのである。このような管理人のやり方は、道義的にはけしからぬことである。ところが、イエスはこの「不正な管理人」が解雇の危機に直面してとった抜け目のないやり方をほめて、「この世の子らは、自分たちの事柄に関して、光の子らよりも賢く行動している」と言われた(ルカ一六・一〜八)。
 これはまことに現代的な光景である。上級の公務員が在職中に会社などに便宜をはかって恩を売っておき、退職した時にその会社の役員に迎え入れられるようなことはよく見受けられる。イエスはこのような行為そのものを賞賛しておられるのではなく、彼らが危機を認識して機敏に対処した賢さをほめて、「光の子ら」が自分たちの事柄について、すなわち「神の支配」の到来に備えるということについて、彼ら以上に賢く行動することを求めておられるのである。
 ではどうして備えたらよいのか。イエスは「不義の富を用いて」と言っておられる。「不義」というのは、富を得る手段が正しいか不正かという問題ではない。どのように正しい手段で得た富であっても、人間がそれを自分が自由にできる所有物だとするとき、それは「不義の富」となる。ここで「富」というのは、財産・所有物だけではなく、才能や知識、またそれで得た地位や名誉、すべてこの地上で価値あるものとしてその人に賜っているものである。それは本来神のものであって、人間はそれを神の栄光のために用いるように委ねられているのである。だから、人間がそれを自分が獲得したものだから自分のために用いるのは当然だとするとき、一切の富は「不義の富」となる。
 永遠の住まいに迎え入れてくれるのは、人間の友人ではない、神である。だから、ここでイエスが言っておられるのは、自分に賜っている一切のよきものを、自分のために用いるのではなく、神のために用いて、神に喜ばれる友として生きよ、ということである。世間の人々が自分の危機に対処する機敏なやり方を見て学べ。あなたがたは彼ら以上に真剣にかつ敏速に決算の日に備えよ、と言っておられるのである。わたしたちが地上を去る時、一切の富は無くなる。自分が持っているものは何も無い。あるのは自分自身だけである。自分と神との関係だけである。その時に神を友としうるように、現在の富を用いよ。
 神のために富を用いるのは、何も教会に財産を捧げて、その活動を助けることだけではない。自分が持っているすべての価値あるものを捧げて隣人を助けることが、神のために富を用いることである。神は「小さい者」を愛しておられるからである。

                              (一九八九年二号)