市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第20講

20 天皇の年か主の年か

「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない」。

(イザヤ書 四四章六節)


 一九八八年が終わろうとしている。そして「昭和」が終わろうとしている。この時にあたって、元号で年を数えることの意義を考えなおしてみたい。自分のいる時を主の年で刻むか、または天皇の元号で数えるかは、キリスト者にとっては信仰告白の問題である。
 信仰上の立場を離れて一人の日本人として考えてみても、この国の歩みを元号で記述することはおかしいことである。古代では王は神の代理として地上の一切を統治し、時間をも支配する者であった。暦を決めることは主権者のしるしであった。時は「何々王の何年」というように王の統治の年数で数えられた。しかし今や天皇はこの国の元首でもなければ統治者でもない。主権者は国民であることは憲法で明白に規定されている。その国民がなお元号を用いて自分の時を数えるのであれば、いつまでも古代の神王イデオロギーの亡霊から解放されることなく、民主主義の確立は覚束ない。また、天皇をすべての価値の源泉とする天皇神格化に陥る土壌を温存することになるであろう。
 さらに、これからの日本は国際社会の一員として生きていかなければならない。この国際化が叫ばれる時代に、日本だけが時と歴史に関して国際社会と全く別の基準に固執するならば、それは時代錯誤のひとりよがりであり、国際社会で孤立することになるであろう。もちろん今でも外国相手の交流には元号は通用しないことは、その実務にあたる人たちには十分理解されていることであろう。しかし、国内だけでも元号に固執することは、二種類の年号を事ごとに換算しなければならないという不便さだけでなく、いつまでも自分だけの基準に固執する日本人の心情に国際社会から疑いの目を向けられる懸念もある。
 このような時代錯誤的な元号を、ほとんどの日本人が奇異と感じないで用いているのは、天皇制が日本人の宗教であるからではなかろうか。それは宗教の形を取っていないが、日本人である以上は天皇を親とする家族的な共同体の一員であるという、ほとんど意識されない心情が根元にあって、天皇が政治的に統治者でなくなっても、自分の存在と時を天皇を基準にして数えることを当然とするのであろう。
 ところでキリストに属する者は、自分の存在と時が、また世界の時と歴史が、イエス・キリストにおいて自身を啓示された神が支配されるものであることを信仰によって知り、そう告白している。時は御子キリストから発し、キリストに向かう。地上の時の流れはキリスト出現に向かっており(BCはキリスト前)、キリスト出現の後はその出来事を基準にして年が数えられる(ADは「主の年」の意)。これはイエス・キリストを神からの決定的な啓示の出来事と信じる信仰の告白である。自分の存在をキリストに負う者の告白であり、自分の時が主の御手の中にあることを言い表わす行為である。日本の社会では困難があるが、キリストに属する者がまず「天皇の時」を脱却して「主の年」を告白していかなければ、この国の民が「神の支配」を知ることはますます遠のくであろう。

                              (一九八八年七号)