市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第16講

16 時を見分けよ

「あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時(カイロス)を見分けることができないのか」。

(ルカ福音書 一二章五六節)


 新年になるといつも一年の予想が語られる。昔は雲や風向きから天気を予想したが、今は政治や経済、生活や流行、世の中の成り行きが、これまでの様々の指標を分析して予想される。それは過去の経験に基づいており、ある程度的中する。
 人々は時代の流れを判断することに賢明であるが、いま自分が置かれている時が、神の前でどのような質の時であるかを認識することができない。それは人間が人間自身を物差しとして自分を判断しているだけで、神との関わりの中で自分がいる時を判断しようとしないからである。イエスはこのような人を偽善者と呼ばれる。
 イエスが「あなたがたはどうして、このカイロスを見分けることができないのか」と言われる時、身近にいてイエスが為される多くの力ある業を見ながら、イエスの中に神が決定的な働きをしておられることが見えない人々の不信を嘆いておられるのである。「このカイロス」とは、イエスが「時(カイロス)は満ちた」と宣言された「時」、すなわち神のすべての約束と予言が成就する時である。イエスの中にその決定的・最終的な時が来ていることが人々の目に見えないのでる。
 いま福音はイエスの十字架と復活の出来事の中に神が最終的な救いの業を成し遂げられたことを世界に告げ知らせている。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」。今は誰でも、主イエス・キリストを信じることによって罪の赦しにあずかり、聖霊の賜物を受けることができるのである。聖霊によって神の子とされ、復活の生命に生きることができるのである。今は恵みを受け入れて神の子とされた者も、恵みを拒んで自己を立てる者も、隠された姿でいる。しかし隠されているものが顕にされる日が来る。その日には隠されていた神の子は復活の栄光の中に顕れ、救いの恩恵を拒んでいた者は、顕にされた自分の姿に自分で責任を取らなければならない。
 今は二つの決定的なカイロスの間にある時である。すなわち、神がキリストの十字架と復活によってすでに救いの業を成し遂げられたあのカイロスと、すべて隠されているものが顕にされて完成される最終のカイロスとの間である。今は終わりの時である。あの第一のカイロスをもって終末が世界に突入して来ており、今隠されて来ている終末はやがて来る第二のカイロスで顕現完成する。世界は高度技術の時代とか情報化の時代とか言われるが、そういう時代の識別以上に今必要な判断は、世界の主である神の前に今がどのような時であるかを見分けることである。
 イエスは今の時を見分け、それにふさわしい「正しいこと」を判断せよと言われた後、訴える者と途上で和解する必要を譬で語っておられる。今の時に為すべきことは、キリストにおいて神が与えて下さっている和解を受け、神に帰ることである。今は恵の時である。

                              (一九八八年一号)