市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第15講

15 父の家

「わたしの父の家には部屋がたくさんある」。

(ヨハネ福音書 一四章二節 私訳)


 われわれ日本人は家が狭いことに苦労してきた。いつも「せめてもう一部屋あれば」という思いをもって、広い家に憧れてきた。それだけにイエスのこの言葉は実感をもって聞くことができる。イエスを信じて、イエスの父の家に住むことを許されるならば、もはや住まいの狭さを嘆くことはなくなる、というのである。
 では父の家はどのくらい広いのであろうか。何万人ぐらいまで入れるのであろうか。わたしが入れる部屋は残っているだろうか。このように考えるならば、それはイエスの言葉を聞き損なっているのである。イエスは霊の世界のことを語っておられる。霊の次元の言葉を客観的な数量で考えてはならない。それは主体的な人格関係の表現として聞かなければならない。
 日本語には「懐が広い」という表現がある。これはその人の懐に入れる品数が多いことを言っているのではなく、自分とは違ったタイプの人を受け入れる心の姿を言っている。そのように、イエスが「父の家は広い」と言われる時、それは父の家に入れる人数ではなく、背く者を赦し無条件で受け入れてくださる父の恩恵に限度がないこと、父の懐の広さを言っておられるのである。
 もし父の恩恵に限度があるのであれば、わたしは父の家に入ることはできないであろう。今キリストがわたしのために十字架上に血を流してくださったことにより、父の限度のない恩恵が確証されている。このキリストを信じ、キリストに合わせられて自分に死ぬ者は誰であっても、父の恩恵により聖霊を与えられて、新しい生命に生きる。この恩恵に限度はない。
 たしかに父の家に入っていくためには十字架という門を通らなければならない。そして、自己を主張してやまない人間本性にとって十字架は「狭い門」である。しかし、この「狭い門」を通って入る者は幸いである。その先は広々としている。そこは恩恵の場である。聖霊によって生きる世界である。もはや律法の拘束を超えた自由の天地である。十字架の門を通って入る者は、「父の家は広い」ことを体験し、実感するであろう。

                              (一九八七年 アレーテイア 一五号)