市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第14講

14 神の「しかり」

「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。

(コリント人への第二の手紙 一章一九節)


 ゲーテの「ファウスト」の中で、悪魔メフィストフェレスがファウスト博士に現われて、初めて自分の名を名のる時、「わたしはすべてを否定する霊である」と言っている。学生の頃にこの一句を読んだ時の衝撃を忘れることはできない。その頃、わたしは自分の存在を根源的に肯定することができず、結局はすべてが無意味ではないかという否定の壁に取り囲まれて、魂が沈み、呻いていたからである。
 今、キリストの福音を信じ、キリストにあつて生かされている。キリストにおいてわたしに現われてくださる神は、わたしに根源的な「しかり」を与えて下さる神である。わたしが自分の存在そのものを喜び感謝することができるようにしてくださる神である。自分の存在と共に、宇宙万物の存在を喜ぶことができるようにして下さる神である。
 もちろん、神は御自身に背く事態に対しては厳しい否定(審判)をもって臨まれる。しかしその否定は、背くものを砕き取り除いた後、真に神に属するものを建てるためである。究極の肯定のための否定である。
 神はこの天地万物と人間を造り、すべてを「はなはだ良し」とされる。万物は神の「しかり」の下にある。ところが、その中に悪魔が入り込む。彼は否定の霊であって、神の真理を否定して虚偽を語り、人間を神の真理から引き離す。悪魔が用いる最終的な否定は死である。彼は死をもって一切を否定する。
 悪魔の「否」に支配されている世界に、神は御子キリストを遣わされる。キリストは十字架の上に悪魔に対する神の「否」(審判)を引き受けて、悪魔の支配を終わらせる。そして神はキリストを三日目に復活させて、死を克服する神の最終的な「しかり」を宣言される。
 復活こそ究極的な神の「しかり」である。キリストにある者は十字架の「否」を通って、復活の大肯定に達する。神の約束はことごとくキリストにおいて「しかり」となった。だから我々はキリストにあって「アーメン、しかり」と唱えて、神に栄光を帰するのである。

                              (一九八七年 アレーテイア 一二号)