市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第12講

12 神か富か

「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

(マタイ福音書 六章二四節)


 意識するかしないかを問わず、人はなにかを目標として、その目的に自分の人生を捧げて生きている。その目標に「仕えている」と表現することができる。そして何に仕えて生きるかがその人の人生を決める。
 多くの人は富に仕える人生を送る。とくに現代の日本ではほとんど皆、地上の生活を豊かにする富を得るために、幼い時から馬車馬のように追い立てられて生きている。たしかに地上の財貨は生活していくために必要なものである。それを獲得するには苦労が多い。苦労して財貨を求める生活をしているうちに、本来生活のための手段である財貨が人生の目的となり、自分が仕える主人になってしまう。しかし、その主人は仕える者を幸福にはしない。マモン(富)は冷酷な主人である。
 それに対して、主イエスはもう一つ別の生き方を示しておられる。「神に仕える」生き方である。目に見えない神に仕えるとはどういう生き方であるのか、もう少し具体的に、そしてやや大胆に言い換えると、人間を大切にし、人間に仕える生き方であると言える。神は御自身の像(かたち)に従って人を造り、人を愛して、世界の万物を人間のために造り与えられたのである。地上の財貨はたしかに神から与えられたものであり、神の祝福である。しかし、それは人のために与えられたものである。人に仕えるための手段である。わたしたちが与えられた富を感謝し、それを用いて人に仕えるならば、それは神に仕えているのであり、神に喜ばれる生き方である。神は御自分が愛しておられる人間が大切にされることを喜ばれるからである。
 ところが富に仕える者は、富を得るために人間をただの手段として利用する。人間はマモン(富)の祭壇に捧げられた犠牲となる。目的と手段は逆転し、神の秩序は破壊される。神の秩序を破っていては、神の永遠の祝福に与ることはできない。富に仕える者は神を憎む。
 富に仕える道と神に仕える道とは両立しない。富に仕え神を憎む道を歩むか、人に仕え神に喜ばれる道を歩むか、どちらかを選ばなければならない。

                              (一九八七年 アレーテイア 六号)