市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第10講

10 すべて求める者は得る

 「求めよ、そうすれば、与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。

(ルカ福音書 一一章九〜一〇節 私訳)


 イエスのこの言葉はあまりにも有名である。しかし、有名なのは前半だけで、普通後半は無視されている。「求めよ、そうすれば与えられる」という言葉は、どんなことでも何かの目標に向かって懸命に努力すれば、かならず目標に達するから、というように努力を励ますために広く用いられている。しかし、イエスがそう言われる根拠として「すべて求める者は得るからである」と言っておられるところは無視される。それは、われわれは求めても得られないことがあまりにも多いことを知っているからである。この世は厳しい。「すべて求める者は得る」というようなことは、どうして言えようか。
 わたしはイエスのこの「すべて求める者は得る」という言葉に驚嘆する。このようなことを断言する方に驚嘆する。何の条件もない。いったい、どうしてこのようなことが断言できるのだろうか。われわれの体験は逆である。求めてもなかなか得られない。求めるものを得ることができるのは、特別の条件を満たす事ができる一部の人たちだけである。求めるものが価値の高いものであるほど、条件はますます厳しくなる。それを得るための資格はますます難しくなる。
 ところが、イエスは「すべて求める者は得る」と断言される。何の資格も要求されていない。いかなる条件もつけられていない。誰でも求める者は得るということが自明の事実として語られている。イエスはどのような世界のことを語っておられるのであろうか。
 イエスは神が賜る聖霊のことを語っておられるのである(ルカ一一・九〜一三)。父親が自分の子には無条件でよいものを与えるように、神は父として求めてくる者に無条件で、最もよきもの、すなわち聖霊を与えてくださる。父が子に与えるように、相手の資格を問わず、何の条件もつけないでよいものを与える神の働きを「恩恵」という。イエスはこの「恩恵」の世界を見ておられるのである。この「恩恵」の世界に生きておられるのである。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるのである」(マタイ五・四五)。
 いま十字架の福音はすべての人を「恩恵」の世界に招いている。神の子キリストがすべての人のために死なれた以上、もはや人間の側の資格は無意味になってしまった。そこはただ神の恩恵だけが支配する世界である。そこは「すべて求める者は得る」という法則の世界である。その恩恵の場で求める時、神の霊は無条件で与えられる。そして、神の霊は人に神の子としての実質を与える力であり、来るべき神の国の保証、復活に至る生命である。このように、人間にとって至高の祝福である聖霊が無条件で与えられる恩恵の場が備えられている以上、もはや人間は自分の不幸や滅びの責任を他に帰すことはできない。

                              (一九八七年六号)