市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第5講

5 いのちは誰のものか

「人が全世界をもうけても、自分のいのちを損したら、何の得になろうか」。

(マルコ福音書 八章三六節)


 人間は底なし沼である。その所有欲には限度がない。一つの物を手に入れると、すぐ次の物が欲しくなる。結局全世界を自分の物にしないと気が済まないのである。ところで、所有欲とは支配欲のことである。人がある物を自分の物として所有したいのは、所有物であれば自分の思うままに処理する事ができる、すなわち支配する事ができるからである。人間の所有欲に限度がないのは、その支配欲に限度がないからである。

 人間の支配欲が物に向かっている限り、それは技術を生み、文明を発達させる。現代の科学技術文明は宇宙空間をも支配しようとしている。ところが、人間は自分が支配できる物が多くなり、自由にできる力が増し加わると、必ずその力を用いて人をも支配しようとする。そして人の世は他者を支配しようとする人と人との間の限りなき争いの場となる。

 ところが、人間にはどうしても所有する事ができないものが一つある。それは自分のいのちである。人は全世界を所有しても、自分のいのちを所有する事はできない。そして全世界を所有しても、それを所有する自分自身がいなくなれば、何の意味もないことは知っている。それで自分を保持することが最後の願いになるのであるが、その際、物質的なものであれ精神的なものであれ、自分が所有している物は何の支えにもならない。「人のいのちは持ち物によらないのである」(ルカ一二・一五)。人間は自分のいのちを支持する事も、支配する事も、所有する事もできない。いのちは神の所有であり、人のいのちは神からの賜物だからである。人が自分の力ではどうしても死を逃れえないのは、この事実を教えるためである。

 神はこの地上のいのちを賜物としてわれわれに与えて下さっている。そして死の事実によってそのいのちがわれわれの所有物でないことを教えておられる。それはわれわれがさらに勝れる生命を求めるようになるためである。神は今キリストによって世に永遠のいのちを与えて下さっている。それは信じる者に与えられる神の賜物である(ローマ六・二三)。地上のいのちを自分の所有物のように固執する者は結局そのいのちを失い、自らのいのちを本来の所有者である神に捧げてキリストを信じる者は、新たに永遠のいのちを賜物として受けるのである。

 この地上のからだは生まれながらの生命が果てる時に共に滅びる。しかし、キリストにあって賜る永遠のいのちには、それにふさわしい体が与えられる。イエスが復活されたように、キリストに属する者はもはや朽ちる事のない霊の体を与えられる。それが復活である。死者が復活する!それは人の想像すら超えた事である。それは神の創造の業である。永遠のいのちとは復活に至る質の生命である。人は全世界をもうけても、この真実の生命を失い、復活に達することがないのであれば、何の益があろうか。復活に至らない生は滅びである。


                              (一九八七年一号)