市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第4講

4 復活への道

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。いのちにいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。

(マタイ福音書 七章一三〜一四節)


 誰でも人として生まれた以上、人として生きていかなければならない。人としてどのように生きるか、その生き方を「道」という。世には実に様々な生き方、すなわち道がある。人として生まれた以上、どのような道を歩むかは、誰も避けられない最も現実的で基本的な問いである。古来、多くの聖賢たちがまことの道を求め、自分が見いだした限り、それを説いた。

 主イエスは人の歩む道を二つに分けられた。ひとつは滅びに至る道、他はいのちに至る道である。滅びといい、いのちといっても、それはこの体の死生ではなく、人生の破滅と成功でもない。どのような道を歩んでも、人はかならず死ぬ。問題は体の死を突き抜けてなお生きる質の生命を内に持っているかどうかである。それは、死よりも大いなる方、生命の根源たる永遠者、神と共にありうるかどうかによって決まる。

 創造者たる神はこの終わりの時に臨んで、御子イエス・キリストを死人の中から復活させて、死すべき人間に神のいのちが与えられるとはどのようなことかを啓示されたのである。神の生命、永遠のいのちとは、復活に至るいのちである。それ以下のいのち、復活に至らないいのちは神のいのちではない。それは結局滅びである。人は全世界をもうけても、自分が滅んだら、すなわち死人からの復活にあずからなければ、何の意味があろうか。

 では、いのちに至る道、すなわち復活に至る道を歩むにはどうすればよいのか。それは、主イエスが言われたように、狭い門からはいるのである。いのちに至る道の入り口には、十字架が立っている。キリストの十字架の死が自分のためであることを信じることは、自己の全存在が罪であることを認めることであって、人間本性にはできないことである。十字架の下にひれ伏すのでなければ、いのちに入ることはできない。その狭い門からはいり、復活に至る道を歩む者は少ない。

 キリストが自分のために死なれたという十字架の現実にひれ伏す者は、キリストと共に十字架されて死に、神からくる新しいいのち、すなわち聖霊によって生き始める。この聖霊こそ、復活に至る道を歩ませる原動力である。この聖霊こそ、イエスを死人の中から復活させた神の力であって、今われわれの内にあって、自分が復活するという人間の理解をはるかに超えた未来を確信させるのである。聖霊によらなければ、誰もいのちの道、復活に至る道を歩むことはできない。


                              (一九八六年 アレーテイア 三号)