市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第3講

3 恩恵は生命にまさる

あなたの恩恵(いつくしみ)は、命(いのち)にまさるゆえ、
わがくちびるはあなたをほめたたえる。

(詩編 六三編三節)


 この世でいのちより大切なものはない。いのちを失えば、いかなる名誉も財産も何の値打ちもない。知識も倫理も、いのちがなければ無意味である。われわれはこう考え、こう感じて、いのちを維持することを最高の価値、究極の目標として努力している。
 たしかに生命は尊いものである。生命を尊ぶことは人倫の始まりである。しかし、いのちよりも尊いものはないのであろうか。もし、いのちよりも尊いものが何もないのであれば、いのちを失うことは一切を失うことであり、絶望以外の何ものでもない。そして、死は何人にも絶対避けられないのである。
 そこで、人々はいのちよりも尊いものを見つけようとして、捜し求める。それがあれば、今死んでも満足だと言えるものが欲しい。そのためにはいのちを投げ出すことができるものを持ちたい。そういう願いが誰にも心の奥底にある。それは、ある時には主義や思想であり、ある時は国家や会社である。そして、最も身近なものは愛である。とくに男女の間の愛である。人は愛のためであれば、生命を捨てても惜しくないと思う。しかし、同時に、主義や国家や異性への愛が、いかに人を欺くものであるかということも知っている。
 信仰者はいのちよりも大切なものがあることを知っている。それが決して人を欺くことのない確かなものであることを知っている。それは神の恩恵である。わたしがどのような反逆者であっても、無条件で赦し受け入れてくださる神の憐れみであり、わたしがどのように不忠実なものであっても、変わることのない誠実さでわたしを愛してくださる神の慈しみである。このような神の恩恵は、それがなくてはわたしの存在そのものがありえない根底である。それはこの過ぎ行くいのちよりもたいせつなものであることを、信仰は知っている。
 すでにイスラエルの詩人はそれを知り、多くの仏教者は仏の慈悲としてそれを賛美した。今や神の恩恵はキリストを通して最終的・決定的に現され、注がれている。キリストはわれわれの神への背きという根源的な罪を負って十字架上に死なれた。それは、神がわれわれ背神者を無条件で赦し受け入れることができるようになるためである。キリストにおいては、圧倒的な神の恩恵が支配している。キリストの中に自己を投げ入れる者は、十字架の恩恵に自我は砕かれ無価値となり、ただ神の恩恵だけが一切となって生きる。
 キリストにある魂は、恩恵は生命に勝ることを知っている。恩恵なくしては、信仰も救いも、永遠の生命もない。神との関わりにおける自己の存在そのものが無い。恩恵を失うことはいのちを失うことよりも重大である。恩恵の絶対性の前に生命も相対化される。

                              (一九八六年三号)