聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 8 講
(8)御霊にあるキリストの体       4章14〜16節

 エフェソ人への手紙4章14〜16節において、まず14節では、人間の謀や思いつきにもてあそばれ、このために「惑わし」(原語は「異端」の意味を含む)に引き込まれて、頭であるキリストに向かう正しい御霊の働きからそれてしまう危険性が指摘される。これに対して、15節では「愛にあって真理を証しする」ことが勧められる。「真理を証しする」とは、言葉だけでなくその生き方において「真理を顕わす」ことであり、これはイエスの人格的な霊性のことである。「すべての点でイエスに向かう」ことによって初めて、霊的な成長が達成できるからである。
 しかし、このことは、各個人に与えられている御霊の賜とこれによって生じる霊性をエクレシアの指導者たちが管理し、統率し、画一化する必要があることを意味するのだろうか? そうではなく、16節では、「それぞれ各自が」キリストの体の<一人のメンバー>として、「体の頭である方、すなわちキリスト」からの<働きかけ>に応じることによって初めて、エクレシア全体の成長が達成されるとある。これが、「愛にあるキリストの体という聖堂」が完成する道なのである。
 このことは、キリストの人格的霊性に与る一人一人が、聖霊の満たしを受けて、これによって成長することを通して初めて可能になるのであって、個人の霊性が、教団の指導者によって管理され画一化されることによって行なわれるのではない。田ごとの月は、もろもろ田が御霊の水に満たされて、ついには一つの水面となる時に、地上に映じていた無数の月影が、天上の月と同じ一つの月を映す鏡となる。イエス・キリストの人格的霊性を宿す人間が交わりにあって集うところにイエス・キリストの人格的霊性が顕現する。これが、エクレシアを通して顕われる「キリストの体」である。<主イエスのからだ>とはこのことを指す。
 「主は一人、御霊は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」とあるように、「一致」はすでに天上にあって存在している。それゆえにこそ、地上において一致が求められ、また現にみ霊が一致を「働きかけて」、成長と完成が達成される。エフェソ人への手紙がわたしたちに啓示しているのはこのことにほかならない。
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