聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 6 講
(6)エクレシア神秘思想     エフェソ3章10節

 エフェソ人への手紙の著者は、3章1〜7節までで、「神の恵みによる経綸」(2節)について述べ、それが「キリストの神秘」であることを強調している(同3〜4節)。その「神秘」の内容はと言えば、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが「共同の相続人」になり、「ひとつからだ」になり、「同じ仲間」になることである(6節)。3章8〜12節は、3章1〜7節の「キリストの神秘」をさらに深めて、その意味を掘り下げている。8節からは、「神秘」が、「言い尽くしがたいキリストの富」であり(8節)、「世々にわたって/世の初めから隠されてきた神秘な配剤」(9節)であることが強調され、これこそが「実に多種多様な神の知恵」(10節)の啓示であると語られる。
 ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが「ひとつになる」ことが、これほどまでに高められた「キリストの神秘」となり「神の知恵」であると言う以上、わたしたちは「ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の一致」が真に意味していることを改めて掘り下げて考察する必要に迫られることになろう。おそらくエフェソ人への手紙の作者は、ここで単なる両者の一致以上の高次元での出来事を眼前に据えていると考えないわけにはいかない。なぜなら彼は、この一致がもたらす霊的な意味を「天上の諸々の霊力」さえも凌ぐほどの宇宙的な霊性の広がりの中に見出しているからである。
 著者が観ているこの壮大なヴィジョンの「実体」を正しく認識しない限り、ここで語られている用語や概念を「神話的」であるという理由で過小に評価したり、これを現代のわたしたちの思考様式を基準にして判断してはならないであろう。著者がわたしたちに告げようとしているその「実体」とは、「エクレシアを通じて」わたしたちに知らされる「神の多種多様な知恵」(10節)のことである。「エクレシア」とは、「神に召されて、イエス・キリストを信じる共同体」(10〜11節)のことである。神はこのエクレシアを通じてその御計画を「今の時に」「成し遂げよう」としていると作者は言う(11節)。
 ここまで来ると、わたしたちは、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との一致が、キリスト教におけるかつての歴史的な一段階の出来事を超えて、霊的な出来事として隠喩化されているのを洞察しなければならない。このような隠喩化を通じて初めて、著者がわたしたちに伝えようとしている神のエクレシアの実体をわたしたちも垣間見ることができると思うからである。エフェソ人への手紙がわたしたちに伝えようとしているエクレシアの「実体」とはなにか? 著者は、これを「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、一つの希望」(エフェソ4章4〜5節)と言い表わしているから、世界の「エクレシアの一致」こそが、著者の見ている「実体」の本質であることが洞察できよう。
 世界のエクレシアが霊的に一つの姿として顕われる作者のこのエクレシア観は、エフェソ人への手紙全体を流れている。これをわたしたちはエフェソ人への手紙の「エクレシア神秘思想」と呼ぶことができよう。私見によれば、それは、「全人類の一致」へつながる歴史的なパースペクティヴを秘めた思想である。世界のキリスト教徒たちが一つになることと、人類を含む地球規模での環境から宇宙全体へ広がる「人と自然と宇宙」の調和とが、ある種の「一致」へ到達すること、人と大自然とのこのような一致こそ、作者の言う「秘められた神の計画/目的」(9節)が指し示す方向なのであろう。このような壮大なヴィジョンを描くことによって初めて、エフェソ人への手紙の作者がわたしたちに伝えようとしている「キリストの神秘」「世々にわたって隠されてきた神秘な配剤」「多種多様な神の知恵」の真意が理解できるのではないだろうか。
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