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(4)イスラエルの「ポリテイア」   エフェソ2章12節

エフェソ人への手紙2章11節で、著者は、「いわゆる無割礼の者たち」と「いわゆる手による肉の割礼の者たち」とを対照させていると言われている。しかし、著者はここで、両者を対照させているよりも、むしろ、「いわゆる」という蔑称に近い言い方を付与することで、異邦人をもユダヤ人をも克服した新たな世界への展望を示唆しようとしているのを見逃してはならない。続く12節で著者は、この展望を受けて、「あなたたちはキリストなしであった時には」という条件をつけた上で、異邦人キリスト教徒たちが、かつては「イスラエルのポリテイア(国籍/市民権)」とは無縁であったと言う。
 この「ポリテイア」という(都市)国家の隠喩は、「イスラエルの」という限定と内容的にうまく結びつかない。これに続いて「諸契約からなる約束からも疎外されていた」とあるが、この「約束」(単数)と「諸契約」(複数)との組み合わせは、ここが、「イスラエルに対する約束(単数)」であることから、諸契約の中でも、特にイスラエルの民に約束されていた「メシア」の到来を指すと考えることができよう。だとすれば、「メシア」の到来に伴う「諸契約」とは、メシアの王国の到来に伴ってイスラエルの民に約束されていた「諸権利/諸特権」を意味することになろう。したがって、「ポリテイア」の隠喩は、新たなメシアの到来による新たな(都市)国家の到来を告げていることになる(1章14節参照)。エフェソ人への手紙では、これがさらに、2章21〜22節においては、キリストの御霊にあって建てられる新しい「神の神殿」の隠喩へとつながることになる。
 ここで、改めて、「イスラエルの国籍/市民権」という言い方に戻ると、著者は、この用語によって、ユダヤ人と異邦人との両者を隔ててきた人種的かつ宗教的な壁を克服する新たな「メシアの国/支配領域」を志向しているのは間違いない。「イスラエルの国籍/市民権」をイスラエルのシナゴーグ共同体「カハール」と同一視するのは、「イスラエル」に引かれて、「ポリテイア」をユダヤ教的な共同体へと解釈し直すところに生じていると思われる。しかしながら、これでは、「イスラエルの国籍/市民権」とうユダヤ=ヘレニズム的な造語によって筆者が意図する独自の内容を十分汲んでいるとは言えないであろう。
 この書簡の作者は、11節でユダヤ人と異邦人両方の国家観を克服して、12節では、全く新しいメシアの特権を具えた国籍/市民権を提示し、さらにこれをユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが共有する「希望」へと位置づけている。13節では、「今やキリスト・イエスにおいて」とあって、ここからは、キリストの御霊の支配領域が、「聖徒たちの仲間となる市民権」あるいは「神の家族」の隠喩へとつながることになる(2章19節)。
 筆者のこのような「ポリィテイア」観に即して見るならば、キリストが「わたしたちの平和」(14節)であるとは、内面的な霊性における「平安」を指すだけでなく、「都市国家の平和」という社会的な集合性をも帯びていると理解することができよう。また「敵意を滅ぼした」(16節)とあるのも、個人の領域に留まらず、社会的、文化的、かつ宗教的な「隔ての壁」が除去されることでなければならない。
 わたしたちは、ここで改めて、イスラエルに約束されていた「メシアの到来」について思い出す必要があろう。神がその諸契約に基づいてイスラエルに与えた「約束」とは、メシアである「キリストの御霊」をその「嗣業」とするというのが、パウロの理解であった(ガラテヤ3章14節/同29節)。このことは、キリストにある御霊の支配領域が、個人間の「平和」あるいは「敵意」に及ぶだけでなく、さらに広い社会的共同体をも形成する原理へと拡大していくことをも指し示すものであろう。
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