聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 3 講
(3)「前もって備えた」について   エフェソ 2章10節

 エフェソ人への手紙の2章5〜6節においては、天上のキリストと地上の信者とが「共に」で結ばれている。この「共に」は、ガラテヤ人への手紙にある「キリストと共に十字架された」を受け継いでいると考えていいであろう。「共に十字架される」は、「キリストによって/あって」十字架されることでもあるから、この「共に」はパウロとキリストとが「一緒になって」生じた事態ではなく、キリストの御霊の働きによって生じた霊的な出来事だと見ることができよう。パウロにおいては、ここで「罪から救い」へ、「死から命へ」の転換が生じていると考えられるから、このような価値観の転換は、キリストの御霊の働きかけによって生じた事態であり、その意味で、神からの「啓示」によって初めて可能になったことを意味することになろう。
 パウロ書簡と同様に、エフェソ人への手紙においても、天上のキリストと地にいる信者との間をキリストと「共に」ある関係が結んでいるから、この意味で、ここでも同じキリストの御霊による啓示が働いていると見てよい。ただし、エフェソ人への手紙の場合は、そのキリストの御霊によって、信者の集まりであるエクレシアの「外」の世界と「内」の世界とが区別されることになる。したがって、エフェソ人への手紙では、キリストと「共に」あることが、天上と地上、エクレシアの内と外のように、空間的(領域的)な区分を創り出しているところにその特徴がある。だから、エフェソ人への手紙にあっては、もろもろの天体を含む「天上界」とこれに対する「地上の世界」という空間的な対応関係と、同時に、エクレシアの「内と外」という領域関係が、御霊のキリストにあって存在していると見ていいであろう。
 ところが、こような領域関係を表わす「共に」が、同時に「かつて」と「今」という時間的な経過を伴って語られていることにも注意しなければならない〔A. Loncoln; Ephesians. Word Biblical Commentary. Word Books(1990).〕。すなわちここでは、「天」と「地」、エクレシアの「内」と「外」のような空間領域が、「かつて」と「今」という時間的な経過においても言い表わされていることになろう。このことは、この書簡において語られているキリストの御霊が、空間的な領域のみならず時間的な経緯に沿っても働くことを意味している。御霊の働きが、神から人への啓示を意味するとすれば、ここで言い表わされているキリストの御霊による「啓示」とは、時間の流れと空間的な領域との両方を併せ持つものであり、この意味で、ここでは「啓示」それ自体が、空間的な領域を含みつつ、同時に時間の経緯に沿って「動いて」いることでなければならない。
 だとすれば、キリストの御霊にある神からの啓示とは、時の経過に伴って、空間領域的な啓示そのものも、常に新たな展開を顕わすことになろう。すなわち、ここで語られている「啓示」とは、時と共に「空間的」な領域においても啓(ひら)かれてくることを洞察することがができよう。
 しかも、このような御霊にある啓示は、時空の動きだけでなく、罪から救いへ、死から命へ、という「価値観」をも併せ含むことになる。このことは、価値観を伴う「啓示」それ自体が、時間に伴って、空間的にも啓かれてくる、すなわち、価値観それ自体も常に時間的で領域的な統合の中で、新たな価値観を啓示し続けているという構造をここに読み取ることができよう。しかもエフェソ人への手紙2章10節では、このようにして与えられた宇宙的かつ歴史的な啓示が、実は神によって「隠された来た」こと、言い換えると神が「前もって備えていた」(プロヘートイマセン)〔3人称単数アオリスト能動〕ことが示されるのである。
 このように見てくると、2章10節に「神がわたしたちのために前もって備えていた善い業」とあるのは、キリストの御霊と「共に歩む」わたしたちの「善い業」が、「前もって備えられていた」ことが啓示されることであり、しかもその「善い業」とは、空間的な領域と時間的な経過とを伴うことによって、新たな世界(時空)の中で新たな価値観として啓かれてくることを意味する。神はこのように、未来に向けて新たな啓示を与えてくださることを約束しておられるのである。わたしたちが「神の作品」になるということは、実は、世界の初めから隠されていたわたしたちの「有り様」が、キリストにある神の創造の御業によって啓示され、そこに新たな創造の業が形成されていくことなのである。
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