聖書学研究所 > 研究会員からの寄稿 > 第 1 稿目
「ローマ書を最初に受け取った人びと」
水垣 渉
はじめに

 市川喜一先生の独立福音伝道50年と著作集12巻刊行をお祝いする会に連なることが許されましたことは、まことに不思議な思いがいたします。先生とのこのご縁は、わたしが50年ほど前、京都大学文学部の教室ではじめて先生にお目にかかった時には、まったく想像もしなかったことでした。

 数年前から、市川喜一、久野晋良、私市元宏の三先生の毎月のローマ書の研究会に加えていただくようになりました。わたしは、この研究会でいつも聖書の勉強への大きな励ましをいただいています。わたしは新約より後の時代の初期キリスト教の思想を研究しているもので、新約聖書の専門家ではありませんが、市川先生のローマ書講解はこの国で著されてきた多くのローマ書の注解や講解のなかでも、最もすぐれたものの一つだと確信をもっていうことができます。これからお話しすることは、ローマ書について学んできたことのささやかな報告でしかありませんが、これでもって先生にたいするお祝いと感謝の念を表させていただきたく存じます。

 これからのお話しでは、新共同訳聖書の「ローマの信徒への手紙」の代わりに、「ローマ書」と呼ぶことにします(1917年の改訳は「ロマ書」、1954年の口語訳は「ローマ人への手紙」)。元来新約の文書の表題は、ほかの文書との混同を避けるため貼られたいわばラベルのようなもので、簡潔なものでした。ローマ書も「ローマ人(複数)へ」という二語だけです。「マタイによる福音書」は原文では「マタイによる」です。長ったらしいのはよくありません。

 ローマ書は難しいので有名ですが、内容は市川先生の講解が的確ですのでそれに譲り、わたしは、この手紙を受け取ったローマの信者がどのような人びとだったのか、その集会はどのようなものだったか、かれらはどのように暮らしていたのか、そしてできれば、この手紙をどのように聴いたのか、といったことについて、最近20年ほどの研究の一部を紹介したいと思います。ですからわたしのオリジナルな研究ではありません。ただあとのほうでは、わたしの解釈あるいは推測をかなり交えているところがあります。

 ローマ書からの引用はおおむね新共同訳によります。


ローマ書について

 この手紙は紀元55〜56年、あるいは56〜57年、パウロがコリント滞在中に(ガイオの家、16:23)書かれ、ケンクレアイの集会のフェべによってローマに運ばれたものだろう。パウロはこの後57年頃エルサレムで逮捕され(使21:33)、59〜60年ローマへ護送され(使27:1〜28:16)、60〜62年ローマで番兵つきの生活を送り(使28:16)、おそらく62〜63 年処刑された。

 つまりパウロはローマ書を書き送ったほぼ3〜4年後にローマに到着し、16章で記された名前の人びととこの間に新たに加えられた人びととに出会うことになっただろう。いずれにしても、パウロがこの手紙を書いて多くの人びとの名を記したとき、やがて必ずかれらに会えるとの祈りと確信があっただろう。

  この手紙は、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」宛てられている(1:7)。この手紙では、ローマ市のキリスト者全体は決して「エクレシア」とは呼ばれておらず、一部すなわちプリスカとアキラの家の集会がそう呼ばれているだけである(16:3〜5)。なお「エクレシア」は普通「教会」と訳されているが、「エクレシア」には「教」の意味は含まれていないのと、後代の「教会」との違いを見失わないために、そのままエクレシア、あるいは集会と呼んでおく。ローマ書の本体(1〜15章)にはエクレシアの語は使われておらず(この点第一コリントは違う)、16章だけに見える。

 最初の2世紀間、ローマのキリスト者たちは市内の別々の場所に分かれて集会をもっており、中央の集会所はなかったから、第一、第二コリントの「コリントにある神のエクレシア(単数)へ」のように「ローマにある神のエクレシアへ」とはいえなかっただろうが、ガラテヤ書の「ガラテヤ地方の諸エクレシアへ」(1:2)のように、「ローマにある諸エクレシアへ」というような言い方は不可能ではなかっただろうと考えられるのに(1世紀末の第一クレメンスになると「ローマに滞在しているエクレシア(単数)」との言い方がなされている)、そうはいわないで、「ローマの人びと一同へ」(=ローマにいるすべての人びとに)という。何故なのか、大変興味深い問題であるが、わたしにはわからない。ともかく16:2.6.16の「あなたがた」は、事実上このようなローマのキリスト者全体を指している。そして16章には、この「すべての人びと」のうちのかなり多くがあげられていると考えたい。その理由については、あとで述べることにする。

 この手紙は直接個人に宛てられたものではない。個人は「誰それによろしく」という挨拶に出てくる。16:3の「プリスカとアキラによろしく」とは、「あなたがたはプリスカとアキラへわたしの挨拶を伝えてください」という意味であり、これは発信者であるわたしパウロと直接の受信者である「あなたがた」と挨拶が伝達される相手であるプリスカとアキラの三者関係からなっている。勿論、「あなたがた」と「挨拶が伝達される相手」とは現実には重なっているが、パウロの意識においては、「あなたがた」あるいは「あなたがた一同」(1:8; 15:33)はローマ書の内容が全体としてかかわる相手であって、個々人のレベルとは 区別されている。

 さらにパウロは、発信者の側に「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロ」(16:21)、「わたしとこちらのエクレシア全体が世話になっている家の主人ガイオ」(16:23)、「市の経理係クアルト」(同)を加えている。「この手紙を筆記したテルティオ」も「わたしテルティオ」と代名詞つきで名乗って挨拶を送っている(16:22)。パウロの手紙でこれほど多くの個人名が発信者の側にあげられているものはない。第一コリント16:19〜20ははるかに簡単である。さらにパウロは、挨拶の発信者に「異邦人のすべてのエクレシア」(16:4)のみならず、「キリストのすべてのエクレシア」(16:16)を加えている。明らかにパウロは、この手紙を、自分の伝道を支えてくれている多くの個人キリスト者(ときにはチームを組んだ)とともにさらにその背後にある全エクレシア(複数)から、ローマの一人一人のキリスト者とかれらに連なるローマの全キリスト者とエクレシアへの手紙として送り出している。パウロは一人一人のキリスト者とともに、それまで自分が伝道した各地の全エクレシア、さらにはそれらを越えて見渡すことができないほどの広がりをもったすべてのエクレシアを一身に集めて―いわば代表して―、これから向かおうとするローマへこの手紙を書いているのである。このことから、パウロが発信者と受信者との間に構造的な対応関係があることを意識していたことが分かる。

発信者の側: すべてのエクレシア−個々のエクレシア−個々の信者
受信者の側: ローマの人たち一同−ローマの個々の集会−個々の信者

 この対応関係の意識が、ローマ書が「召されて使徒となったパウロ」(1:1)がかれのすべての集会を代表してローマの「召されて聖徒となったものたち」(1:7)へ送るという公の性格をもった手紙であることをはっきり示している(第一コリントもいくらか似ている。挨拶と結びは同じ)。ローマ書の特徴は、発信者、直接の受信者、挨拶が伝達される相手の三者関係が、大から小まで包括していて、個別的であると同時に普遍的であることにある。このことはパウロのエクレシア論において見逃せない点だろう。

 この公的な性格の本質的で実質的な内容が「福音」であることはいうまでもない。これは「ト・エウアンゲリオン」、つまり英語でいうと the gospel である。「福音そのもの」であって、あなたがただけのための限定された福音ではなく、「信じる者すべて」のための福音(1:16)であって、したがって「あなたがたにも」(1:6.13.15参照)告げ知らせるべき福音そのものである(だからといって、相手の状況と無関係に一般的な福音本質論を展開しているわけではない)。このように、個別性と普遍性とを総合するという意味で、1章と16章とは対応しているといってよい。またそうだとすれば、16章の記述の背後には、福音の本質と結びついたパウロの意図的かつ組織的な伝道の構想が存在していることになる。このことの意味については終わりのほうで述べよう。

 ローマに行くことはパウロの多年の切望であった(15:22〜23)。「多年」とは2〜3年より長い期間だろうから、その間にかれの耳にはローマのキリスト者について多くの情報が入っていただろう。パウロはローマのキリスト者について熟知していたといってよい。プリスカとアキラがパウロによって先にローマに派遣され、当地の情報をパウロに送っていたとの推定も可能である(J.マーフィー-オコナーは、1〜12章を55〜56年の冬に書き、プリスカとアキラからの情報の到着を待って56年春に残りを書いたという)。したがって、16章にはかれが知っていた限りのすべての集会と人びとが記されている、と考えてよいのではないか。パウロが名前で知っていた人を省略したとは思われない。むしろパウロは、14節の「および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく」のように、名前をあげた人びとと共にいる人びとにも挨拶を忘れない。「だれそれにも」(5.13.14.15節)という繰り返される「も」(ギリシア語のkai)は、先の「あなたがたにも」と共通であり(1:14の「ギリシア人にも未開の人にも...」参照)、相手の一人一人に及ぶ細やかな配慮とともに使徒としてのパウロの福音への責任の自覚と熱心から出たものである。このように考えると、パウロは「ローマにいるすべての人たち」をかなり具体的に知っていて、かれの知識から漏れている集会があったとは思われない。

当時のローマ

 ローマは、前4世紀に築かれたセルウィウスの市壁に囲まれていた。アウグストゥス(前64〜後14)は前7年に市域を14地区に分けた。「地区」は京都の中京区とか下京区といった行政区域に似ている。一つの地区は市の中心部からいうとティベリス川の西側にあった。つまり現在のヴァティカン側である。第14地区である。地区はさらに街路によって区切られた「街区」に分けられた。町内というところだろう。パウロより11年ほど後の73年には、全市に265の街区があったといわれる。3世紀後半にアウレリアヌス帝がこれらの14の地区を囲む市壁を築いたが、その市壁の長さはおよそ18.8km、市壁内の面積は1,386ヘクタールであったという。その面積は、中京区(7.38平方キロメートル)と下京区(6.82平方キロメートル)とを合わせた14.2平方キロメートルより少し小さいことになる。ちなみに中京と下京を合わせた地域は南北ほぼ3.7km、東西4.5kmで、ローマ市と大きな違いはない。ローマ市の人口は最盛時に100万(2世紀後半)だったが、パウロの時代には80万前後ではなかったかといわれる(65万という説もある)。2006年の10月1日現在の中京区の人口は102,246人、下京区は75,731人、合計177,977人だから、二つの区よりやや小さい面積のところに4〜4.5倍ほどの人びとが暮らしていたことになる。

 4世紀の統計では、46,602棟の集合住宅と1,790戸の一戸建て住宅(ドムス)があった。この比率はパウロの時代でもあまり変わりなかったと考えられる。神殿、浴場(大きいものが5つあった)、劇場、競技場、庭園(市内に14、外に2)をはじめ公共建造物が多く、貴族などの豪壮な邸宅や一戸建て住宅もあったから、平民の暮らす場所の過密ぶりは想像を絶するものだったろう。

 一般の人々は「インスラ」(「島」の意)と呼ばれる集合住宅で生活した。それは数階建てで、6階、7階のものもあった。4階まではセメントで建造され、煉瓦で外装された。上層は木材など軽い建材で造られた。上層階ほど家賃は安かったという。比較的上の階層の人は2階に、中程度の人は1階と3階に、下層の人は4、5階に住んだ。貧しい人びとだけがインスラに住んでいたのではない。家屋の倒壊や火災は珍しくなかった。各家には街路に通じる階段から直接入れるようになっていた。こういうと公団住宅を思い出される方もあろう。仕切られた独立の住居は賃貸された。1階は店舗などにも使用された。インスラの中には、一室だけの住居(ケッラ)もあれば、やや大きなもの(ケナクルム)もあった。使29:30でパウロは「自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎した」といわれているが、その借家はインスラのなかの比較的広い(キリスト者の?)住居だったように思われる。それは宗教的環境としては、「住民は信仰深く、集合住宅全体が共用する神棚が設置される」(P. グリマル)といったものだった。

 16:23に「わたしとこちらのエクレシア全体が世話になっている家の主人ガイオ」とある。このガイオはコリントでドムスの所有者で、そこにエクレシア全体が集まっていたと思われる。この時代の民家についてはいくつかの発掘例がある。もしガイオの家がそれらと類似していたとすると、次のような像が描ける。40平方メートルほどの居室があり、周りの壁の寝椅子(食事用)には9人の場所がある。もし寝椅子を取り除くと20人は収容できる。もし中庭を入れると、最大40〜50人は入れたであろう(R.W. ゲーリング)。また店舗(タベルナ)の発掘例としては、14の店舗が並んだ44平方メートル建物がある。一戸当たり間口約3m、奥行き4m、この場合は面積12平方メートル。もっと大きな店の場合、4.5×6m、27平方メートルのものがある。居室、寝室、食堂は店の後ろあるいは階上にあり、ほぼ同じ大きさ。この場合は20人ほど収容できただろう(ゲーリング)。しかしローマでは、これほどの大きなドムスでの集会はなかったように思われる。プリスカとアキラの家にしても(16:5)、ドムスではなかっただろう。

 インスラでは、通りに面した住居だけがいくらか採光が可能であった。密集して建てられたインスラの場合には、採光はきわめて困難だった。多くの人びとは暗い家で暮らしたのである。水は普通上の階にはひかれていなかった。トイレは公共の有料トイレがあった。道路の下水に通じるトイレを持つ家はわずかであり、多くは家の中の穴や甕、便器を利用した。ポンペイではそれはたいてい台所にあった。安全もまた絶えず脅かされた。火事はもっとも恐れられた。64年の大火は有名である。インスラは所有者からまるごと借りて、それをさらに賃貸することが普通だった。貧しい人びとは毎日家賃を払わなければならなかった(Ch. クンスト)。

 キリスト者が多く住んでいた地区はどこだったろうか。2世紀頃までを研究したP. ランペによれば、キリスト者が多く住んでいたのは、おそらく、ティベリス川をこえた第14区とカペナ門からアルモネ川にいたるアッピア街道低地(第1区)だった。これらは共和制の時代には市壁外の地区で、アウグストゥス以後市内に編入されたローマ市の周辺地区だった。とくに第14区は、1世紀にユダヤ人が住んでいた主要な地域だった。パウロの時代もほぼ事情は同じだったと考えられる。貧者の地区(スラム街)があったかどうかはわからない(クンスト)。

ローマ人の生活

 ローマ帝國の人びとの平均寿命は20〜25年くらいだった。0歳の男子の平均余命は22.8年、女子は25.0年だったという研究がある。別の研究によると、年齢構成ではローマ帝国の平均年齢は、男性26.2才、女性27.3才だった。エクレシアもほぼ同様だったと考えられる。

 新生児と乳幼児の死亡率は高く、5才までに50%近い子供が死亡していたから、生き残った5才児の平均余命はかなり高くなる。最近号の『タイム』(2006.10.16アジア版)によると、現在世界の5才以下の子供の死亡原因の第一位は肺炎で、1年に200万人、第二位は下痢など、190万人(『タイム』は一握りの砂糖とひとつまみの塩と水差しいっぱいの水があれば相当減らせるという)、第三位はマラリアで、85万3千人であるという。古代ローマでもあまり事情は変わらなかっただろう。ローマから海岸のオスティアにかけては沼沢地が広がっていたし、「ローマの南東にはマラリアの温床として悪名高いポンプティナ湿原がひろがっていた」から(『古代ローマを知る事典』)、マラリアは夏の日常的な病気だったろう。ペストの大流行は前22年と後80年にあったことが知られている(クンスト)。77年の伝染病の流行では、数週間にわたって日に1万人が死亡したという(『事典』)。パウロの時代にも多かれ少なかれ伝染病が流行しただろう。日本でも毎年インフルエンザが必ずあるのだから、衛生事情と栄養事情が悪かった当時のローマでは、伝染病はつねに猛威を振るったに違いない。

 幼児の死亡が多く、平均寿命も短かったことは、新約を読む場合にも考慮に入れておいてよい事柄である。ローマ書で「永遠の命」といわれるとき(5:21; 6:22〜3)、また「復活」といわれるとき、当時の人びとの感じ方は、現代のわたしたちの多くとはずいぶん違っていたのではないだろうか。「神の子」(8:14)というときの「子」にも、神の命に与って神から生まれて、今生きているものという実感があったのではないだろうか。

16章の人びとと集会

 16:3〜16には28人の個人が出てくる。アリストブロ(10節)とナルキソ(11節)はキリスト者でなく、かれらの家の一部がキリスト者だった。したがって26人がキリスト者で、そのうち24人は個人名が挙げられている(ルフォスの母とネレウスの姉妹は名前がない)。

 ここで目立つのは女性である。26人中9人は女性、17人が男性。ランペによれば、1〜2世紀で歴史的に確からしいキリスト者として知られているのは、グノーシス主義者を含めてちょうど100人で、そのうち女性は23人だから、パウロのリストは1世紀半ば頃としては著しい数である。

  女性9人というのは、新共同訳やその他の訳になじんでおられる方には、8人ではないかといわれるかもしれない。7節の新共同訳の「ユニアス」は男性名と解されており(新改訳も)、ユニアヌスの短縮形ともいわれるが、この短縮形のユニアスという男性名はまずありえないことが、ランペの研究『最初の2世紀におけるローマ市のキリスト者 社会史の研究』(1987,1989 第2版)によって確かめられている。『ラテン語碑文集成Y』が1974年以来データベース化され、帝政時代のローマ市のラテン語碑文(金石文)のコンピュータ検索が可能になり、また1982年にはゾーリン『ローマにおけるギリシア人名』が刊行されたので、当時の人名について頻度など具体的なデータが明らかになったのである。ランペはこれらを利用して、ユニアスという名は1回も見えないのに対して、ユニアには250回以上の用例があることを示した。したがってユニアは女性であって男性ではないことが確実になる。

  家柄のあるローマ市民は、個人名+氏族名+家系名で呼ばれたが、女性はしばしば家系・家名を示す第三番目の名なしに氏族の名で呼ばれた。氏族を名乗るのは、有名な氏族の一員だけでなく、その氏族の解放奴隷も同様であり、この場合のほうがはるかに多かった。ユニウスという有名な氏族では、解放奴隷もローマ市民権を与えられていた。それゆえこのユニアは、解放奴隷でありローマ市民権を持っていたらしい、といえることになる。6節のマリア、15節のユリアも同じだろう。したがって、ユニアが使徒と呼ばれていたことになる。16章の人名の歴史的事実に基づいた新しい解釈はランペの1987年の画期的な研究から始まったので、1990年頃以後出版されたローマ書の注解にはその成果が活かされている(市川『ローマ書講解』も)。新約聖書の研究も、確実に進歩している部分がある。

  さらにランペの研究を紹介しよう。諸集会で活動的であったのは7人(あるいは6人)の女性である。「協力者」プリスカ(3節)、「非常に苦労した」マリア(6節)、「使徒たちの中で目立っている」ユニア(7節)、「主のために苦労して働いている」トリファイナとトリフォサ(12節)、「主のために非常に苦労した」ペルシス(12節)、「パウロにとっても母」であるルフォスの母(13節)。
これにたいして男性は5人(あるいは3人)。「協力者」アキラ(3節)、「一緒に捕らわれの身となったことのある」アンドロニコ(7節)、「協力者」ウルバノ(9節)、さらにおそらく「真のキリスト信者」アペレ(10節)、またおそらく「選ばれた者」ルフォス(13節)。これらのうちアンドロニコとウルバノはローマでなく東方で働いた人びとだったろう。これにたいしてマリアはローマで労苦した。
ここで注目されるのは、マリアとトリファイナとトリフォサとペルシスの4人の女性について用いられている「苦労する」(コピアオー、kopiao)という動詞である。その名詞形の「コポス」(kopos)とともに、新約ではかなりパウロに特徴的な言葉である。「苦労する」はローマ書では16章にだけ、しかも女性にだけ使われている。パウロは自分については、ガラテヤ4:11と第一コリント15:10でこの動詞を使っている。伝道者の労苦を示す術語だろうともいわれるが、狭い意味での伝道に限られず、その内容はもっと広いものだったろう。「協力者」がプリスカとアキラのようにパウロの直接的な協力者であるのにたいして、「苦労した人」はある場所での伝道に伴うさまざまな労苦を担った人だろう。パウロは、自分が直接携わっていないローマでの伝道と集会に女性たちの労苦があったことをよく承知していた。ともかくパウロは、おそらくまだ会ったことのないローマの4人の女性に自分と同じような労苦を認めている。

 同じ箇所で、12人が東方から来た者である(東方生まれは太字で示す)。プリスカとアキラ(ポントス)、エパイネト(アジア)、アンドロニコとユニア(二人ともパレスティナの原初使徒に近い)、ウルバノ、ルフォスとその母、パウロが「愛する」(=個人的に知っていた)アンプリアト、スタキス、ペルシス、アペレスである。他の12人については個人的に知っていたか判らない。
名前の由来や頻度から自由人か奴隷出身かがある程度判明する。ランペによると、名前のデータが取れる13人中、3分の2以上が非自由人出身(解放奴隷)であることがかなり確かにいえる。なおK.ハーカーは、ローマのキリスト者は通例ローマ市民でなく、「外人」だった、という。

 名前だけでは、ユダヤ人キリスト者だったか、異邦人キリスト者だったか決められないが、パウロは3〜16節で「同胞」つまりユダヤ人であるアンドロニコ、ユニア、ヘロディオンの3人をあげている。「パウロはキリスト者のユダヤ人生まれを特別な関心をもって強調している(16:7.11.21)」(ランペ)。もしそうだとすると、ユダヤ人アキラ(使18:2)を加えて26人中4人(プリスカがユダヤ人だったとすれば5人)ということになり、15%ほどの少数だったことになる。ローマのキリスト者の大多数が異邦人キリスト者だったことは、いくつかの箇所から示唆されるが、他方ローマ書の内容がユダヤ文化を知らない人には理解できないところがあることも確かである。この矛盾をどう解釈するか、ローマ書解釈の基本的問題である。ランペは、大多数は異邦人出身だったが、キリスト者になる前にシナゴーグの周辺にいてユダヤ教の同調者になっていた、ということで解決しようとする。少し飛躍した言い方になるが、これにはパウロ自身がユダヤ人であってかつローマ市民権を有していたという二重性を考慮に入れる必要があろう。
16章には、ローマにあったいくつかの集会のグループがあげられている。 1)アキラとプリスカ(5節)、 2)アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス(14節)、 3)フィロロゴ、ユリア、ネレウスとその姉妹(15節)、 4)アリストブロ家内の信者(10節)、 5)ナルキソ家内の信者(11節)。他の14人がすべて同一のグループに属していたとは考えにくいから、少なくとも他に二つのグループはあっただろう。そうすると少なくとも七つのグループがあったことになる。のちのパウロ自身の集会を入れると8つ(使28:30〜31)になる。最初の2世紀間に中央の礼拝場所はなく、集会は別々のプライベートな場所でおこなわれていた。7年後のネロの迫害では多くの殉教者が出たといわれるから、もっと多くの集会があったかもしれない(R. ジュエット)。しかしわたしは、パウロのリストから見てそんなには多くなかったと思う。七つの集会があったとして、名前が挙げられている人のほかに、かれらと一緒にいる者たち(16:14.15)も含めて、一つの集会に10〜20人いたとすると、70人から140人というのが全ローマのキリスト者だったことになる。しかしローマのキリスト者についてのパウロの知識からいうと、この数は多すぎる。N.T.ライトは、一つの集会が6〜20人として、ローマ全体で30人から100人の間と推定しているが、わたしはこれに賛成したい。コリントの集会とほぼ同じかやや少ない50人前後と想像する。

 これらのうち、アキラとプリスキラの家は確実に家の共同体だった。ゲーリングは家の共同体(Hausgemeinde)を、「礼拝の目的のために個人の家に集まるキリスト者のグループ」と定義している。家の集会(オイコス・エクレシア)といっておく。 エクレシアと呼ばれているから「相対的に独立」(ゲーリング)したものだった。2)のアシンクリトらの集会、3)のフィロロゴらの集会も家の共同体だったことがかなり蓋然的に推定される。

 これらの家の集会はどこで持たれていただろうか。高名なパウロ学者であるジュエットは、インスラの中の借家でなされたといい、この集会を Tenement churchと呼んでいる。英語のtenementは、スラム街の安アパートのことである。狭い場合には仕事場を使ったり、キリスト者の隣家との仕切りを取り外してスペースを作ったという。しかしこれには、仕切りを取り外すことができたという証拠はない、との批判もある。部屋は小さく、台所もないのが普通であり、客を入れる余地はなかった。公共の場所(フォルム)や、悪天候の場合にはアーケードのようなところを使ったのではないかというのである。これは信者の社会的階層の問題にも関係する。おそらく少人数の段階では、一室で、あるいは比較的広い部屋のある家でなされたのだろう。

どのように読まれたか

 コミュニケーションやレトリックの視点で聖書を解釈することは、かなり以前から試みられている。ローマ書はどのようにしてその意図を達成しようとしているか、受容の問題を含めた修辞的戦略を研究するものである。

 ジュエットは、ローマ書のレトリックを研究した論文で、こう述べている。「もしローマ書の《高揚した点》あるいは《クライマックス》はどこかという伝統的な問いを提示するとすれば、それは、手紙の15〜16章より前の部分で扱われている抽象的で教理的な主題におけるよりも、むしろ15〜16章の締めくくりにおいて見出されるべきことは確かである」。15:6.13.30〜33などの箇所がそれに当たる。勿論かれは、14章までで「論述の終わりで気持ちのこもった強い訴えが展開されている」ことを認めてはいる。しかしわたしはこの解釈にはかならずしも同意できない。

 その理由の一つは、「アーメン」の用法にある。パウロは四大書簡でアーメンを9回(ローマ16:24を入れると10回)用いている。ガラテヤの2回の用例は、はじめの挨拶の結び(1:5)と結びの祝福(6:18)という当然の場所に見える。第一コリントの1回の用例は14:16にあり、「教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか」という「アーメン」のいわば引用である。第二コリント1:20「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます」もほぼ同様の用法である。これにたいしてローマ書の5回の用例は、15:33と16:27の手紙の結びの賛美ないし祝福は通常の用法として別にすると、1:25、9:5、11:36は手紙の途中で神賛美(1:25、11:36)、あるいはキリストないし神賛美(9:5)としてパウロ自身の口からほとばしり出たものである。第一テサロニケ3:13も祈りの言葉として手紙の途中に出てくるが、ローマ書が長いこともあろうが、3回の用例は特異である。「抽象的で教理的」と見える議論の途中であっても、パウロにとって神とキリストは第三者として客観的にだけ語ることができない。おのずと告白、賛美の対象になるので「アーメン」を発せざるをえないのである。そしてこの手紙が朗読されるとき、聴くものも「アーメン」にあわせて「アーメン」と唱和しただろう。これはまったく自然なことである。ローマ書そのものが礼拝的な性格をもっている。これは多かれ少なかれパウロの手紙に見られるものである。書かれた文章だけを対象にする通常の修辞的分析は、ローマ書には間に合わないところがある。

 アーメンの反対が、「メー・ゲノイト」である。「決してそうではない」などと訳されている。「とんでもない」ということ。「アーメン」は、ギリシア語訳である七十人訳では多く「ゲノイト」(「そのようになりますように」という意味)と訳されていたが、新約ではそう訳さないで、原語の音のまま使われている。これにたいして「メー・ゲノイト」は、アーメンの意味を否定する表現である。この点で、「アナテマ」(9:3;第一コリント12:3;16:22;ガラテヤ1:8.9)に似ている。「メー・ゲノイト」はローマ書の3〜11章で10回用いられている。四大書簡では、他に第一コリントで1回(6:15)、ガラテヤで2回(2:17;3:21)だけだから、これはローマ書の特徴である。これは修辞的用法であるだけでなく、「アーメン」と逆であるが同じくらいのウェイトをもつ言葉である。これまたパウロの気迫のこもった表現であり、議論における否定の振幅を最大限に示すものである。聞くものをドキッとさせ、時として震え上がらせるような響きを持っていたに違いない。

 ローマ書が朗読されるのを聴いていた集会の人びとが、「アーメン」の意味をどの程度知っていたかは判らないが、まったく知らないで聴きまた唱えていたとも思われない。また「メー・ゲノイト」が「アーメン」に関係する言葉だということはあまりわからなかったかもしれないが、強い否定の言葉であることはよく分かっていたに違いない。ローマの人びとは、パウロの気迫に揺さぶられたに違いない。ともかく「アーメン」と「メー・ゲノイト」が示すのは、ローマ書のエモーショナルな振幅の大きさであり、またそのことは、ローマ書の内容が「アーメン」か否かを分かつ決定的な事柄にかかわっていることを示している。

  そのことはもう一つの理由にも関係してくる。ローマ書では、議論が熟してくるとしばしば「高揚した語り」(elevated discourse)が出てくる。ほかの手紙にもないわけではないが、とくにローマ書の特徴である。アウグスティヌスは『キリスト教の教え』という聖書解釈学の書物で、キケローに倣って文体に三種を区別し、その一つに「魂の感情の激しさ」をもつ「高揚体」をあげている。その例としてあげているのが、ローマ書8:28〜39である。8章は全体が議論の高まりを示す箇所であるが、31節以下ではだれにも分かるようにそれが顕著である。修辞的な反語的疑問文が重ねられて、最後に38〜39節で「わたしは確信しています」といって、十の連ねた言葉を否定した後、これらは「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことができない」と高らかに断言する。もっとも力あるものと見られるものをすべて否定する力として、神のキリストにおける愛を語っているのである。このような箇所では、聴いた人びとの口からやはり「アーメン」の声がおのずから湧き上がったことだろう。

 アウグスティヌスのいう高揚体は、11章にも見られる。イスラエル人と異邦人との双方に及ぶ神の逆説的で不思議な救済計画を述べた後で、パウロは神の知恵に驚嘆して「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と叫ぶ(33節)。「ああ」(ギリシア語で「おー」)はパウロで5回、ローマ書で他に3回使われているがいずれも神に逆らう人間の愚かさをいう場合である(ガラテヤ3:1も)。それゆえこの箇所はまったく独自である。11:33〜36は、「おー」という間投詞の賛美で始まり、そのあと聖句の引用を含む反語的疑問が続いて最後に「アーメン」という頌栄で結ばれる。パウロが口授しそして朗読されたローマ書における頻繁な間投詞的用語の使用は、まさにローマ書全体が「高揚した」レベルにあることをまざまざと示すものである。

 これらのことは、パウロの議論は気持ちのこもったものであって、議論が信仰告白(たとえばフィリピ2:5から6への移行を参照)、賛美、頌栄にいつも高まる動きをもっていることを示している。単なる神学的議論が長々と繰り広げられているではない。いやもっと正確にいうと、根本的な事柄を論じる場合、議論が本質的な核心に触れてくると、言語は必然的にその限界にぶつかることになるから、そのことが言語表現としては否定を伴い(むしろ、否定が否定の力としてのその核心を露にして)、脱自的な語り方になるのである。ローマ書はまさに福音の核心を明らかにしようとするものだから、随所でそのような高揚した語り方にならざるをえない。

 ローマ書における議論がクライマックスに達したときの脱自的高まりを表現するこのような高揚した語りは、きわめて特徴的なものであって、文体論的には、礼拝や祈祷における直接的な心や感情の高揚とは区別しなければならない。それは、ローマ書ほどの長さをもつ複雑な論理展開を前提してはじめて起こる現象だろう。しかしそれも究極的には、「アーメン」に帰一する(11:36)。

 それゆえ、パウロのローマ書は、古代ギリシアのアテナイの集会(エクレシア)で語られた雄弁や文章の技術としての修辞の応用というよりも、そのようなレトリックを超えて、福音を説き明かして語ることに本質的に伴う語り方を示している。

 このことから、ローマ書が朗読されるときには、聴く側にもある特別に高揚した感情を呼び起こしただろう、と考えてよい。現代の礼拝における聖書朗読にように、短いパラグラフだけが取り上げられる場合にはそうではないかもしれないが、一続きのかなり長い箇所が連続して朗読される場合には、パウロが口授したときの調べが聴衆に響いてきただろう。

 確かに、聴くすべての人びとがローマ書の入り組んだ長い議論についていき、理解できたとは思われない。書かれたテクストを手にしていないでただ聞くだけでどれだけ判ったか、疑問になるのは当然である。しかし逆に、朗読する者がパウロ自身が口授したときの気持ちの動きに同調していくとすれば(それはテクストを目で読むときよりもそうなりやすいことは確かである)、聴く者もそれに同調していくだろう。とくに高揚した箇所ははっきりわかったはずである。そこから全体の理解もある程度可能になったのではないか。大学の講義と同じで、細部まで全部理解できることはめったにない。しかし聞くことによって、全体の趣旨や意図や雰囲気はよく把握できるだろう。おそらくこの手紙が朗読されるのを聞いた人びとの場合もそうだったろう。この手紙の口述性を理解することが、ローマ書理解の一つの重要な鍵になる。

むすび

 ローマ書は、パウロ・チームの総力を挙げての手紙である。口授するパウロ、筆記するテルティオ(22節。この人抜きでは、この手紙は成らなかっただろう。かれがわざわざ「わたし」といって名乗っているのは、ローマの人びとの個人名が述べられていることに触発された、かれの連帯感の表明だろう)、協力者テモテ、運ぶフェベ、さらに背後にはコリントの集会の人々―これらの人びとの総力が結集されているのが、ローマ書である。宛て先も直接にはローマのキリスト者ではあるが、その福音はかれらだけにではなく、「あなたがたにも」伝えられるべき福音そのものだった。

 この福音は、パウロの福音として、かれが経験し苦闘したすべての問題を含むものであった。またそうでなければならなかった。律法の問題が詳細に論じられているのはそのためであり、それと関連して7章で「わたし」が出てくるのもそのためである。これらは著しく個人的な性格を帯びていると思われるかもしれないが、パウロはその福音をただ個人的なものとは看做さなかった。「わたしの福音」(2:16)は「神の福音」(1:1; 15:16)、「キリストの福音」(15:19)、「御子の福音」(1:9)であり、要するに「福音」なのである。

 以上のような個人的・個別的であると同時に普遍的・全体的でエキュメニカルであるという性格がローマ書を新約諸書において独自なものにしている。そこには、自分とそのチームの総力を挙げて、ローマからさらにスペインへと向かうパウロの伝道計画の意気込みがこめられている。内容もまたそれにふさわしい。受け取るほうにもそれはひしひしと感じ取られただろう。自分たちの名前が記されている手紙を単に聞き流したとは考えられない。インスラと呼ばれるアパートあるいは長屋の一室に集まっていた10人程度のエクレシアの人びとは、朗読されるこの手紙に「アーメン」をもって応えながら心して聴いたに相違ない。ローマ書はこのような口述性(orality)を根本にしている。この特質は、普遍的なエクレシアの親密な信仰的人間関係の基礎のうえでいっそう具体的に発揮された。

 しかしそれだけにこの特質は、福音書の物語的な口述性とは異なって、失われやすい。また、「パウロの神学」というような視野には入ってこない。それゆえ、ローマ書が現代のわたしたちに突きつけている課題は、ローマ書を「パウロの福音書」(市川)、「パウロの肉声による福音書」として再発見することである。



 ここでわたしが主として参考にした文献について説明しておこう。まず市川喜一『パウロによる福音書―ローマ書講解』、TU、(天旅出版社2005)。ローマの事情については、長谷川岳雄・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』、(東京堂出版2004)、ピエール・グリマル『古代ローマの日常生活』、北野徹訳、文庫クセジュ (白水社2005)がよい参考になる。パウロの全体について知るには、ダン編『ケンブリッジ パウロへの手引き』、James D.G.Dunn (ed.):The Cambridge Companion to St Paul, (Cambridge 2003) が便利。ローマ書についての近年の代表的な研究論文を集めたものに、ドンフリード編『ローマ書討論』、K.P.Donfried(ed.):The Romans Debate, (Edinburgh, revised and expanded edition 1991)がある。本文で引き合いに出したジュエットやランペの研究も含まれている。ランペの画期的な研究は、本文にあげた。Peter Lampe: Die stadtroemischen Christen in den beiden Jahrhunderten. Untersuchungen zur Sozialgeschichte, (Tuebingen 1987, 1989 第2版)。わたしの話も多くこれによっている。家の集会についての詳しい研究としては、ゲーリング『家の共同体と伝道 イエスからパウロまでの古代の家と家の共同体の意味』、Roger W.Gehring: Hausgemeinde und Mission. Die Bedeutung antiker Haeuser und Hausgemeinschaften von Jesus bis Paulus, (Giesen-Basel 2000)が重要。ローマにおける生活や住居については、クンスト『ローマの都市における生活と居住』、Christiane Kunst: Leben und Wohnen in der roemischen Stadt, (Darmstadt 2006)を参考にした。ほかは省略する。

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